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読む宇宙旅行

ライター 林 公代 Kimiyo Hayashiライター 林 公代 Kimiyo Hayashi

宇宙飛行士と生き物の活躍支える「宇宙実験の母」

油井亀美也宇宙飛行士の宇宙滞在が、いよいよ始まった!宇宙到着早々、油井さんはある植物実験を行った。植物が螺旋を描きながら伸びる「首ふり運動」を調べる実験(欄外リンク参照)。実は1年後に予定されていた実験だ。それが米国のドラゴン貨物船の打ち上げ失敗等で実験計画が見直され、「ごぼう抜き」で繰り上げられたのだ。実験を提案した研究者は大喜びだ。

「宇宙実験は『水物』で、状況がころころ変わります。予定された実験スケジュールが変更になった場合に備えて膨大な待機リストがあって、急きょ実施されたんですね。ドラゴンの打ち上げ失敗の時は現地にいて、今思い出しても泣けてきますが、『禍転じて福となす』。実験をやってもらえてよかったです。ただし、私は多くの実験を担当しているので、できなかった実験のことを考えると、喜んでばかりいられないんですけどね」というのが、JAXAの矢野幸子さん。植物やメダカ、線虫などの生き物(ナマモノともいう)の実験を担当する「宇宙実験の母」だ。

宇宙到着後初の油井飛行士のツイートで投稿された写真。顔がふっくらしたムーンフェイス。心なしか若返ったよう。油井さんはさっそく宇宙実験を開始している。
(提供:JAXA/NASA)

矢野さんはスペースシャトル時代の1997年から20年近く宇宙実験を担当しているスペシャリスト。研究者から提案された実験を、宇宙飛行士たちが簡単に、確実に実施できるように装置を開発し、実験手順を考え、リハーサルを繰り返す。「特に生き物を扱う実験で大変なのが、『生きのいい』状態で宇宙に届ける必要があること」という。そこで矢野さんたち「ナマモノチーム」は、貨物船打ち上げ直前の発射場で元気な生き物を選抜し、送り出す。

だから矢野さんは、海外出張が多い。貨物船に生物が積み込まれるときは、JAXAの責任者としてほぼ毎回現地に飛んで、最後の「行ってらっしゃい」まで責任を持つ。だが打ち上げに延期はつきもの。「延期に備えて、試料を10セットはそろえる」という入念さ。延期されても打ち上げが成功すればいいが、失敗した時は心底へこむ。でも下を向いてはいられない。次に向けて再挑戦プランを考える。

JAXA有人宇宙技術部門きぼう利用センターの矢野幸子さん。細胞培養装置の隣で。ほとんどの生物実験はこの装置で行われる。上が無重力の部屋。下が1Gの部屋(回転させることで人工重力を発生)で宇宙での対照実験を可能にした。

宇宙実験提案から本番実施まで—宇宙実験をプロデュース

ここで、宇宙実験が実施されるまでの流れを矢野さんに聞いてみよう。私たちが目にするのは宇宙飛行士が作業する「晴れ舞台」だけだが、その裏舞台ではどんな作業が行われているのだろうか?

Step1. プランニング

「実験が選ばれると、本当に実施できる実験か、どういう機材を使えば可能なのか、予算内で収まるのか、詳細な検討に入ります。実際に機材を試作して『これでいける』とめどが立つまでだいたい1~2年。実験の詳細が固まったら、改めて科学的な意義があるか、技術的に可能かを外部の有識者を交えて判断します。」ここまでが計画段階。

Step2. エントリー

次は、打ち上げの予約をとる。「計画段階のGoが出たら、どのくらいの重さの装置を、どの貨物船で打ち上げ、宇宙飛行士の作業時間が何時間かかるというスペックを決めて、国際的なISSの実験計画に『エントリー』します。だいたい1年半後の打ち上げと実験の機会を予約するのです。」ようやく、宇宙実験の実施時期が決まる。

Step3. 打ち上げ準備

そして一年半後の打ち上げに向けて、準備に入る。具体的にはどんなことを?「宇宙飛行士が宇宙で行う際の手順書を作ります。どの宇宙飛行士が見ても間違わないように、直感的に理解できるように、道具の色や番号、道具の呼び方も工夫して、手順書に落とし込んでいく。そして手順書に従って、宇宙と同じ条件で実際に育ててみる。時間内にできるかどうか確認しながら、より効率的な手順に洗練させていくのです」。

植物実験訓練中の油井さん。水やり中。(提供:JAXA)
1998年10月末、スペースシャトルで植物実験中の向井千秋さん。この頃からの経験が生かされ、宇宙実験の手法は洗練されている。(提供:JAXA/NASA)

生き物を元気に宇宙に届けるために

さて、打ち上げが近づくと主役の生き物たちをまず発射場へ、次に宇宙へ、元気に送り届けなければならない。発射場へは日本から手荷物として航空機に持ち込む場合もあるが、ほとんどの場合、輸送業者に依頼している。「たとえば細胞の場合、凍結して日本からNASAケネディ宇宙センター(KSC)に送ります。私たちはKSCで待ち受けて、生き物を冷蔵や冷凍の状態から『起こす』、つまり常温に戻します。一度輸送状態にしているせいで、培養を始めると線虫などの調子が悪い場合がある。しばらく育てて、健康で生きのいい線虫を選抜します」。

NASA発射場での打ち上げ準備作業。ずらりと並んで顕微鏡をのぞき、生きのいい線虫を探しているところ。
(提供:JAXA)
線虫を独自開発の道具ですくい上げる「線虫釣りの名人」。
(提供:JAXA)
宇宙へ届ける品をリストと照合し、間違いがないか一つ一つチェックするNASA側の担当バージニアさん(左)と矢野さん。膨大なリストから間違いを見つけ出す眼力はスゴイらしい。(提供:JAXA)

いかに元気な状態で運ぶかという事前準備が、宇宙実験の成否を分ける。だがアメリカでは日本で使っていた道具がなかなかそろわないことも多々あり、苦労の連続だ。「例えば漂白剤。劇物が含まれるため、日本から持ち込むこともできません。現地で同じような製品を購入するのですが、表示されているパーセンテージ通りにやっても消毒できない(笑)。濃度を上げすぎると線虫が死んでしまう。試行錯誤して最適の濃度を現場で編み出していくしかないんです」。

そして、宇宙へ。一番問題なのは、何日ぐらい元気でいられるか。それによってどの宇宙船を選ぶかがかわってくる。「たとえば線虫は2週間ぐらい元気がいいのですが、小型魚類のメダカとかゼブラフィッシュは3日間以内には水槽に入れないといけない。だから2012年に行われたメダカ実験では、最速で宇宙に着くソユーズ宇宙船で打ち上げて、当時ISSに長期滞在していた星出飛行士に到着後すぐ、水槽に移し替えてもらいました」。

様々な経験を積み重ね、宇宙実験手順はどんどん洗練されている。このように、ナマモノチームのきめ細やかな準備があるからこそ、宇宙飛行士は効率よく実験を行うことができるのだ。

宇宙で見えてくる「生き物の面白さ」

長年、宇宙実験を手掛ける矢野さん。その面白さを尋ねると、「細胞一つ一つの中におもりの役割をするものがあって、重力を感じ、伝えている可能性があることがわかってきました。このしくみは基本的に動物も植物も同じなんですよ!」と嬉々として語る。また線虫を使った宇宙実験では、老化に関連する遺伝子のいくつかの活動が宇宙では抑えられ、宇宙では老化が遅れるのではないかという実験結果が出ているという!これは興味深い。なぜ老化が遅れるのだろう?

「宇宙の無重力状態では骨や筋肉を使わなくていいから、楽なのではないでしょうか?実際、シロイヌナズナを宇宙の無重力状態で育てると育ちがいいし、宇宙で重力をかけた結果や地上の対照実験より長い間、青々としていました。線虫もゆったり泳ぎます。省エネできる分、寿命が延びるのかもしれない。それを分析するのが科学。いろいろな生物で実験してみたいですね」。

そして今、新しい実験計画にも取り組んでいる。取材前日、矢野さんは山梨大学を訪ねた。「国際公募で選ばれた実験で、宇宙にマウスの受精卵を打ち上げます。宇宙で赤ちゃんが生まれるか、つまり生殖の可能性は大きなテーマです。過去にロシアがマウスを交尾させようとしましたが、マウスは敏感なため宇宙では交尾をしなかった。そこでJAXAはできるところから始めようと、ES細胞やマウスの精子を宇宙に運び、宇宙環境の影響を調べる実験を行っています。次はいよいよ受精卵。マウスの受精卵を凍結状態で宇宙に運び、解凍して4日間培養します。ちゃんと分割(卵割)できるかどうか、宇宙で培養して観察する。世界初の実験で楽しみです。」正常に卵割できることが赤ちゃん誕生への第一歩。注目の実験だ。

矢野さんは実験準備だけでなく、生き物が帰還したあと、研究者と一緒に実験結果を論文にまとめるまで伴走する。論文が成果として出るまでは実験実施から7~8年かかることもあり、息の長い仕事だ。ある現象が観察されても、実験条件を変え様々な生き物で再現し、普遍的な法則を導き出すには、時間と手間がかかるためだ。費用対効果が問われるISS。限られた予算の中、矢野さんはますます忙しい。だが毛利衛元宇宙飛行士に『ISSは科学的な発見をするためにある』と言われた言葉を大切にしている。

話を聞いていると、小さな生き物たちに秘められた生命の神秘に心ときめく。そして生き物と格闘する「現場」は苦労もありつつ、やっぱり面白くてわくわくするのだ。

ナマモノ(生物)チームの皆さんで。使っている道具、研究中の生き物を手に持っていただきました。