新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために政府が要請した時差通勤。朝の電車も乗客はまばらで、首都圏の通勤の風景も変わりつつある。時差通勤の歴史は意外に古く、1950年代半ばにも政府は奨励していた。コロナ危機の出口が見えにくい中、半世紀以上の「時差」を超えて、長年の「通勤地獄」という課題が解消される契機になるかもしれない。
日本では戦後、首都圏で鉄道網の整備が急ピッチで進んだが、それを上回る速度で利用者が右肩上がりに増えていった。こうした背景もあり、1956年、運輸省(現国交省)が時差通勤を行うべきだと提唱した。
当時の通勤ラッシュがいかに酷かったか物語るのが「押し屋」の登場だ。ラッシュの駅で、満員電車に客をぎゅうぎゅう押しこむ係だ。1955年10月に国鉄(現JR)新宿駅のホームにアルバイトの押し屋が初めて出動した。しがみつく人を引きはがす「はがし屋」もいた。
国が提唱し、国鉄も緩和に乗り出したが、なかなか混雑は緩和しなかった。人口の増加以上に電車を利用して働く人が増えたのだ。
鉄道の混み具合を示す指標に混雑率(輸送人員÷輸送力で算出)がある。この指標に注目するとかつての日本の通勤がいかに命がけだったかが見えてくる。
乗車しようとドアから入った者が外に押し戻され、戻されつつもおかしな体勢で乗車できるのが250%だ。当時は、それを上回ったのだ。
当時、国鉄の一車両の定員は144人とされていたが、実際に走行中の中央線の通勤車両を調べたところ500人以上が乗っていたという。けが人でも出るんじゃないかと思うだろうが、実際、無事に電車を降りられないケースも珍しくなかった。
現代ほど窓ガラスの性能も良くないため、中央線では毎日100枚以上の窓ガラスが割れた。中にはラッシュで押しつぶされ、病院に緊急搬送されるなどのケースもあったとか。
けがを負わなくても、ラッシュに揉まれ靴をなくす乗客も少なくなかった。1962年には秋葉原駅で草履とサンダルの貸し出しを始める。冗談のような話だが、毎日、6、7人が利用していたというから混雑ぶりがわかる。
当時に比べ、混雑率は緩和された。鉄道各社は新線を敷くなど鉄輸送力の増強とオフピークの呼びかけで乗降客の分散を進めた。企業側もフレックスの導入などにより、混雑時間帯での通勤を避ける取り組みを推奨してきた。とはいえ、地方からの人口流入は止まらない上に、横並びの日本社会では、オフピークが叫ばれたところで、朝の通勤時間帯の足並みが大きくばらつくことはなかった。東京メトロ東西線やJR横須賀線、JR総武線は200%近い混雑率にあった(国交省まとめ2018年度)。
横並びの勤務時間が崩れなかった背景には、日本は他国に比べて、それぞれの従業員の担当する業務の範囲の不明確さがある。そのため、裁量労働制や柔軟な勤務態勢への切り替えが難しいとされてきた。前述のように時差通勤は以前から提唱され、制度として存在したが、準備ができていないため踏み切れない企業が多かったのが現実だ。
今回、見切り発車とはいえ、多くの企業が踏み切らざるをえなかったことで、人や時間軸の分散こそが危機対応になりうることを多くの企業は理解したはずだ。
コロナショックは収束までに長い時間を要しそうなことからも、社会や企業にもたらす変革は、後戻りできない不可逆的だと指摘する識者が多い。思わぬ形で、日本企業の通勤のあり方もついに変わる時を迎えようとしている。

