イギリスの遺伝学者のポール・ナース氏は細胞分裂の周期を調節する仕組を解明したことで歴史に名を残している。2001年のノーベル生理学・医学賞も受賞しているが、もしかするとこの発見は彼の思いつきによる行動がなかったら日の目を見なかったかもしれない。
彼は一度、ノーベル賞につながる実験結果を自らの手で廃棄している。ところが、研究室から帰宅してお茶を飲んでいたら、実験で使ったペトリ皿(底が平らなガラスやプラスチックの器)を捨てたことに急に後悔の念に襲われる。いても立ってもいられなくなり、自転車に飛び乗って研究室に戻り、ゴミ箱からペトリ皿を回収する。そのペトリ皿の酵母細胞が結果的に彼にノーベル賞をもたらすことになる。
「それは例外中の例外では…」と思われるかもしれないが、科学の歴史は偶然の発見や発明の連続だ。
有名なのは抗生物質のペニシリンの発見だ。アレクサンダー・フレミングが培養液に青カビを混入させたことで発見されたことを聞いたことがある人もいるだろう。
この世紀の発見は片付けが苦手なフレミングが夏休みの間、研究室にシャーレを放置したことやロンドンの気象条件が重なり、偶然見つかった。彼も1945年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。
もし、彼らがそのまま家でお茶を飲んでいたり、シャーレを捨てていたりしたら、ノーベル賞を取り損なったかもしれない。日本の研究者でもノーベル化学賞受賞者の田中耕一氏は試料に混ぜる混合物の材料を間違えたことが結果的に奏功した。本庶佑氏もがんに効くことを全く狙っていないのに結果的にがんに効く薬を発見してノーベル生理学・医学賞を受賞した。
では、彼らは「運がよかっただけなのか」といわれるとそう簡単には片づけられない。予期せぬ発見には「運」だけではたどり着かない。偶然を見逃さない姿勢や創造力が重要になることはいうまでもない。
実験や研究は結果をある程度、予測して取りかかる。そうすると、実験している当事者は周りが見えなくなり、予測していない出来事に気がつかないことが多くなってしまう。
そうした落とし穴にはまらずに、計画した実験や研究の結果以外にどれだけ注意を払えるかが運命の分かれ道になる。
どうすれば予想外の出来事に注意を払えるか。これは、結局は結果をひたすら求めるのではなく、行為そのものを楽しんでいるかどうかにかかっている。
ひたすら自らが求める結果だけを追い求めていては面白いものに遭遇していても見過ごしてしまう。楽しんでいるからこそ、想定していなかった気づきもえられる。予想通り、計画通りいかなくても、その偶然を楽しめる。
これは科学者でなくても、多くの人の日常にも当てはまる。
例えば、毎日の通勤路をただただ歩いている人と、楽しみながら歩いている人では見えている景色は違うはずだ。街を目的もなくぶらついていて、昨日まで気づかなかった様々なものに出合えたり、仕事と関係ない本や情報に目を通したことが仕事に役立ったりした経験は誰もがあるはずだ。
情報があふれる社会は不確実性を可能な限り減らすことが可能だ。旅行に行くにしても瞬時に人気スポットや交通手段が示される。電車のみならず徒歩の所要時間もある程度正確に予測できる。だが、予測可能な生活の延長線上には予想を上回る楽しさはない。
結果ではなく行為を楽しむ。その先には思いもよらぬ楽しさが待っている。

