人工知能(AI)の民主化やデジタルトランスフォーメーション(DX)による業務の効率化に加え、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)の発達で個人に光が当たりやすくなったことなどから、「下積みはタイパ(タイムパフォーマンス)が悪い」との認識が社会に広がりつつある。かつての「石の上にも三年」といった感覚は、ビジネスにおいてはもう古いのだろうか?
3カ月の研修ですし職人になり海外で開業、SNSで顧客の心をつかむフリーランス美容師――。最近はこんな話を至るところで見聞きするようになった。すし職人は一般に「シャリ炊き3年、合わせ5年、握り一生」などと言われ、一人前になるまでに長く厳しい修行を積む必要がある。しかし、現在は短期で学べるすし職人の養成学校が人気で、円安も背景にして、数カ月間すしの技術をトータルで学んだだけで海外へ飛ぶケースもあるという。
同じく「手に職」である美容師も、昔はカットやシャンプー、カラー、パーマなどの技術を長年にわたる下積み時代に磨き上げ、それからようやく独立して自分の店を持つというのが一般的な流れだった。今では「TikTok」や「インスタグラム」などのSNSを駆使し、ひとたび人気に火がつけば、スター美容師へと一足飛びにのし上がることも夢ではない。SNS発信により自身にコアなファンが付くことで、稼ぎも働く自由度も一気にアップするのだ。
だが、プロの中でも一流になる人と、そうでない人には決定的な違いがある。米ペンシルベニア大学教授で心理学者のアンジェラ・ダックワース氏が長年の研究成果を基にまとめた著書、『やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける』によれば、成果を出すためには、スキルだけでなく「グリット(やり抜く力)」こそが重要になる。
同書には「私の計算がほぼ正しければ、才能が人の2倍あっても人の半分しか努力しない人は、たとえスキルの面では互角であろうと、長期間の成果を比較した場合には、努力家タイプの人に圧倒的な差をつけられてしまうだろう」とある。まさに日本で言うところの「継続は力なり」だ。長年続ける(=下積みをする)ことで、その技が次第に成熟していき、一流への階段を一歩ずつ登っていくことができるのだろう。
「(中略)刺身はあたかも花びらのよう。椿の葉を一枚敷くことで刺身の冷たさをやわらげ、味わいを損ねない心遣いがうれしい。あしらいの隅々にまで店の矜持がうかがえる」(『銀座 小十の料理歳時記十二カ月:献立にみる日本の節供と守破離のこころ』より)。東京のほか、仏パリ、米ニューヨークに店を構える日本料理「銀座 小十」主人の奥田透氏の徹底的な仕事ぶりが垣間見える。“一流の職人”の手にかかれば、刺身一切れが感動の味わいになる。
日本のモノづくりの現場でも、こうした明文化できない「暗黙知」の伝承が課題とされて久しい。長い見習い期間を経て、ベテランとなった熟練者の技や感覚を若手はどのように習得し、また次の世代へと伝えていけばよいのか。日本全体に目を向ければ、2022年の国内の出生数は統計以来、初めて80万人を割り込み、23年はさらに70万人台前半まで落ち込む見通しなど、少子化は予想を上回るペースで進んでいる。「タイパ」を意識せずとも、日本に残された時間は少ないのだ。
長年培った熟練者の経験や勘はすぐには形式知には変えられないだろう。だからこそAIやDXに最大限寄りかかり、ベテランの技をデジタル技術で何とか再現しながら現場でどんどん活用していく。そうして試行錯誤と継続を重ねていくことが、ふたたび日本が一流と呼ばれる国に復活する近道なのかもしれない。

