三菱財閥の二代目の岩崎彌之助(彌太郎の弟)が政府から丸の内一帯の払い下げを受けたのは1890年(明治23年)。その4年後にレンガ造りの第1号館(旧三菱一号館)が完成した。三菱合資会社、第百十九国立銀行、高田商会の3社が入居した。日本の近代オフィスビルの誕生だった。
東京・丸の内地区といえば今では日本有数のビジネス街だが、三菱が政府の要請で35ヘクタールを購入した当時は何もないどころか草ぼうぼうの土地だった。購入金額の一坪当たりは12円弱。これは当時の最高地価の麹町三丁目が2円34銭だったことを考えると法外な価格だったことがわかる。政府の要請に他の有力財閥がしり込みする中、彌之助はあんな土地を買うべきではないという批判に「竹を植えて虎でも飼うさ」と平然と答えたエピソードは有名だ。
彌之助にはオフィス街の構想が描けていたのだろう。第1期といわれる1894年(明治27年)の第1号館完成から1911年(明治44年)の第13号館完成までの17年間で、次々とビルが建設され、現在の丸の内の基礎が築かれた。
もちろん、当時と今では時代が違う。オフィスビルといっても現在のオフィスビルのように複数の企業が同居する形式ではなかった。三階建てを縦割りにして出入り口を別にした長屋のようなスタイルだった。
丸の内地区に今のようにテナントが同居する貸しビル形式のビルが完成したのは1914年(大正3年)。第21号館が始まりだ。同年に東京駅が完成したことで丸の内への注目は一気に高まった。1923年(大正12年)には丸ビルが完成。地下2階、地上8階、延べ床面積6万2000平方メートルのマンモスビルは東京の新名所となった。今では当たり前になっているオフィスビルの中に誰でも出入りできる商店街をつくったのは丸ビルが日本で初めてだった。
それから約100年。日本のオフィスビルは大きく変わった。上にも横にも巨大化し、安全、便利、快適はかつてとは比べ物にならないくらい高まっている。丸ビルも建て替えられた。
2020年からの新型コロナウイルスの感染拡大の中では在宅ワークが広がり、「オフィスはもう最低限の機能だけでいいのでは?」とオフィスの縮小論や不要論が語られた。だが、今の状況は少し変わってきている。コロナが落ち着き、「オフィスに戻ろうよ」という機運が高まっている。コロナ禍を通じて、オフィスはルーティンな仕事をただこなす場ではなく、和気あいあいと創造的にアイデアを生み出す場という考えが強くなったからだ。デスクを並べ、そこに社員を詰め込む場ではなく、対面でじっくり話し合う場であり、ひとりで集中して作業できる場であり、偶発的に何かを生み出す場としての重要性が高まっている。
時代と共に変化する環境の中で、これからもオフィスは変化、そして進化を続けるだろう。ITやサービスロボットなどテクノロジーを活用することで、ビルの利用者がより便利に過ごせるようになったり、空調などのエネルギー効率を高めながら快適な空間をつくることができる。オフィスと生活する場所の境界があいまいな時代だからこそ、どんなオフィスをどうつくるかがこれまで以上に企業には求められている。

