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合理的にふるまえない人間の行動を解き明かす ナッジのフレームワークは自己管理にも有効合理的にふるまえない人間の行動を解き明かす ナッジのフレームワークは自己管理にも有効

 なぜ、人は合理的にふるまえないのか?従来の経済学だけを用いては解き明かせない人々の行動を、経済学に心理学をプラスして、新たな知見を見出すのが行動経済学だ。人は適度にいい加減であり、また直感や心理状態にも左右される。そのような「生身」の人間の行動を鑑みたうえで、マーケティング活動に代表されるビジネスシーンや、自己啓発にも貢献できるのが行動経済学だ。
 近年特に注目を集めている行動経済学だが、どのような歴史があり、また活用のポイントはどのような点にあるのか。東京大学で唯一「行動経済学」の授業を担当し、30年以上マーケティング・サイエンスを研究している東京大学大学院 経済学研究科 経済学部の阿部誠教授に聞いた。

阿部誠さんの写真

東京大学大学院 経済学研究科 経済学部教授

阿部 誠(あべ まこと)

1991年マサチューセッツ工科大学大学院博士号取得後、同年からイリノイ大学経営大学院助教授に就任。98年東京大学大学院経済学研究科助教授を経て、2004年より現職。ノーベル経済学賞受賞者との共著も含めて、マーケティング学術雑誌に英文、和文の論文を多数掲載。03年にJournal of Marketing Educationからアジア太平洋地域の大学のマーケティング研究者第1位に選ばれる。日本マーケティング・サイエンス学会の学会誌編集委員長を10年から8年間、21年からは代表理事を務める。主な著書に『大学4年間のマーケティングが10時間でざっと学べる』『大学4年間の行動経済学が10時間でざっと学べる』等がある。

伝統的な経済学に心理学を加えた行動経済学

――行動経済学の本質について教えてください。

 行動経済学は、1970年代後半~1980年代初めに、伝統的な経済学に心理学を導入してできた学問です。イスラエルの2人の心理学者、ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーに確立され、カーネマンは2002年にノーベル経済学賞を行動経済学で受賞しています。

 伝統的な経済学とは、「人間とは合理的にふるまい、理にかなった行動をするもの」を前提に様々な経済現象を説明したり予測したりすることです。理にかなった行動をするので、例えば、「ものの値段が上がれば、それを買う人は少なくなる」ということが起きます。ところが実際には、そうではないことが起きます。かつてアメリカの高級スピーカーBOSEが日本で売り上げを伸ばそうと値段を下げたところ、逆に売り上げが落ちるという現象が起きました。人が理にかなった行動をするのであれば当てはまりません。

 実はものの値段や価格には、「経済的な痛み」だけではなく、他に2つの意味があります。1つはBOSEの例もそうですが、特別なものを持っているという「プレステージ」。価格が高く、買う人の優越感を満足させられるから売れるのです。もう1つは「品質のバロメーター」の意味です。明日までにどうしても治したいと風邪薬を選ぶにあたって、安いものは効果がないのではと不安になり、効果はよくわからないけれども値段の高い方を選ぶ、というような行動です。

 このように、人の消費行動や経済現象、ビジネスには、伝統的な経済学のみでは説明できないものがあります。そこで経済学に心理学を取り入れることによって人間の行動を解き明かすために生まれたのが行動経済学です。

意味のない選択肢1つで変わる人間の心理

――行動経済学が注目されるきっかけのようなものはあったのでしょうか。

 米デューク大学教授のダン・アリエリーが行った実験が有名です。「雑誌を年間購読するなら、あなたはどちらを選ぶか」という質問を2つのグループにしました。Aのグループには2つの選択肢、Bのグループには1つ加えて3つの選択肢としました。結果は図の通り。ほとんど意味のない選択肢を提示することによって、人間の評価が大きく変わったのです。行動経済学が注目されることになった初期の事例です。

 Bのグループにおいて、②の選択肢が「安くないのに安いと感じるのはなぜか」。「印刷版で125ドル」という③の選択肢に引きずられているからです。これは「錨」を意味するアンカーから「アンカリング効果」と呼ばれるのですが、印刷版で125ドルという情報がまるで錨を降ろしたかのように基準になり、セットで125ドルという選択肢を安く感じ、不合理な消費行動をしてしまうというわけです。

ダン・アリエリーが行った雑誌の年間購読に関する実験。Bグループでは、③の選択肢を加えることで、印刷版の価値が高いという情報が基準となったことで、合理的な判断ができなくなってしまう。

 さらに注目が強くなったのは、2008年にシカゴ大学教授のリチャード・セイラーが出版した『実践 行動経済学』(※1)の中で「ナッジ(Nudge)」を提唱したことがあります。人を動かすには強制するのではなく、肘で軽くつつくようなちょっとした後押し(ナッジ)が効果的であることを著書で述べました。

 ナッジは、今まで蓄積された行動経済学の知見を実社会に応用する仕組み全般のことを指すものです。コロナでソーシャルディスタンスが提唱された際、床に足のマークを描いておくと、人々が自然と距離を守って列に並ぶのはナッジの典型例でしょう。オランダのスキポール空港の男性用トイレでは、小便器の中にハエのマークをペイント。みなそれを目がけて用を足すようになったため、トイレの汚れが激減したという例もあります。

(※1)(原題・『Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness)』、キャス・サンスティーンとの共著。邦訳は2009年)

データ社会がより精緻な評価を可能にしている

――行動経済学が注目されるようになったのには、時代的な背景もあったのでしょうか。

阿部誠さんインタビュー中の写真

 私の専門分野であるマーケティング・サイエンスの観点から見ると、個票と呼ばれるデータから取得できる情報がより精緻になり、行動経済学に利用することで深い分析や裏付けができるようになったという側面があります。個票の代表的な例は飲食店やスーパー等で商品が購買された際に記録されるID付POSデータです。「だれが」「どんな」商品を買ったかといったデータはどんどん蓄積されています。

 これによって、例えばお店で特売をした時の消費行動を、個人レベルで分析できるようになります。ID付POSデータを見れば、特売で買った人、買わなかった人、別のブランドを買った人がどういう人たちかが分かる。さらに今は、視聴率データも紐づけられるので、特売したブランドのCMを見たかどうかも把握できる。さらに最近では、ECサイトでだれがどういう商品をどのページで買ったかというデータも加わりました。

 こういったデータは、行動経済学の理論を検証するのにも当然使えます。実験をしなくてもID付POSデータやeコマースのデータから個人レベルのデータが手に入るようになる。行動経済学の理論を検証しやすい環境が整ってきているのです。

 実社会で検証しようとする場合は、さまざまな要因というノイズが入ってくるので、これをどのように統制するかが課題になります。例えば、検討したい要因が「価格」であれば、他の要因を全部同じ条件にして、価格だけを変えることで、消費者の売り上げがどう変わるかを検証する必要があります。ただ実社会においては、競合企業の動きは制御できないので、相手が価格を変えてしまうと、要因が変わってしまうことになり、クリーンな環境での実験はできません。価格だけでなく、競合のCMが流れるだけでも、要因が同じにはならないわけです。こういったノイズをどう考えるかは、企業としての考えどころでしょう。

ナッジの設計ポイントはBASICとEAST

――行動経済学を実際に応用しようとした際に、ステップのようなものはあるのでしょうか。

 課題が何か、何を解決しようとするのかによって異なりますので、典型的なステップのようなものはありません。一方でナッジを設計するに当たっては、「BASIC」と呼ばれる5段階の典型的なプロセスがあります。そして、ナッジの評価には、英国のナッジユニットが構築した「EAST」という4つの属性に分けた評価指標のフレームワークがあります。このBASICとEASTの活用がナッジを考えるうえでは有効です。

 先ほど、ナッジの例として公共経済の取り組みをあげましたが、自己管理や自己実現のためにもナッジは有効で、ここでもBASICとEASTを使います。例えばダイエットであれば、「なぜダイエットができないのか」について、「行動」を観察して「分析」すると、冷蔵庫にいつもケーキなど甘いものがあることが分かった。そこで、ケーキは目立たないところにおくという「戦略」を考え、そして日々の生活において、ケーキは手の届かない棚におくなど戦略を実際に「介入」させ、介入の効果を測定したうえで「制度変更」を目指します。

  • B

    Behavior(行動)

    人の行動を調べる

    ケーキを頻繁に食べてしまう

  • A

    Analysis(分析)

    行動経済学的・心理学的に分析をする

    冷蔵庫など目立つところにケーキがある

  • S

    Strategy(戦略)

    ナッジの戦略を構築する

    ケーキは目に付かなくする

  • I

    Interventation(介入)

    ナッジで介入する

    ケーキを手の届かない棚におく

  • C

    Change(制度変更)

    制度変更を起こす

    ケーキを滅多に食べなくなる

ナッジを設計するうえで有用な枠組みであるBASIC。BASICでは5段階のプロセスを経ることで、ナッジを根付かせる。
BASICを実際の「ケーキを食べずにダイエットをする」という行動変容に利用した流れを併せて示した。

  • 評価の観点

    ナッジを評価
    (ex.「ケーキを手の届かない棚に置く」を各観点から評価)

  • E(Easy)

    簡単か、分かりやすいか、手間がかからないか

  • A(Attractive)

    人の注目を引くか、魅力的か、楽しいか

  • S(Social)

    社会的選好(同調効果、利他性、互恵性、社会規範)をうまく利用しているか

    ×

  • T(Timely)

    介入やフィードバックが適切なタイミングか

ナッジを評価するうえで有用な枠組みであるEAST。
EASTでは4つの観点からナッジを評価する。例としてダイエットのための「ケーキを手の届かない棚に置く」というナッジをEASTのそれぞれの観点から〇△×で評価した。

 このようなナッジをEASTで評価していくわけです。すなわち、そのナッジは「簡単か」「魅力的か」「ネットワークの力が生きているか」「タイムリーか」を考えます。中でもSの部分は重要です。周囲の人たち、すなわちソーシャルを巻き込むことです。人間は周囲の目を気にして行動を決定するという心理を利用するのです。例えばSNSに毎日、自分の体重や身長や血圧を書くと、それを読む人の目を気にして、毎日節制に励むようになる。書き込まなかった日には、友人にランチをごちそうするというような罰則を設けることはさらに有効でしょう。

バブルも行動経済学で説明が可能

――行動経済学が応用されているのは、ナッジとマーケティング分野が大きな柱なのでしょうか。

 実は最も応用されているのは金融で、「行動ファイナンス」という分野です。株式投資の場合、株価が下がれば、その企業の株を保有する多くの人が売り払うはずだと考えるのが伝統的な経済学です。ところが合理的な判断だけではなく、「まだ上がるのではないか」という心理的要素に大きく影響されて行動する人もいるので、全員が株を手放すことはなく持ち続ける人もいる、という結論を導き出すのが行動ファイナンスです。

 2013年にノーベル経済学賞を受賞した米イェール大学教授のロバート・シラーは、行動経済学の概念を使ってバブル現象を説明しています。先にお話ししたアンカリング効果の一種ですが、人間というものは、直近で起きた事象に引っ張られるもの。バブルの発生と崩壊も、身近に起きていることが心理的に影響し、合理的な判断を上回ったことで起きたものだということが行動経済学的には説明できます。

 値段が上がっている土地や株を見ると、この先もこの傾向が続くだろうという心理が働き、買いが買いを呼びますます値段が上がる。でもある時に、「永久に上がり続けるわけはない」と疑問を抱く人が出てきて売ったりすると、株や土地の上昇が減速する。すると今度はこれを見て不安を感じる人が一気に出てきて、「こんな株は売ってしまおう」と値段が下がり続ける。単純に言えばこれがバブルの発生と崩壊ですが、大多数の人と同じ行動を取ることで安心感を得るという「同調効果」など、売り買いの判断に合理的なものよりも心理的なものが強く影響したことが分かります。

 1990年代初頭の日本のバブル崩壊では、その過程で、値段が下がっても土地や株を手放さず、売りそびれてさらに損害を広げてしまうような人も出ました。行動経済学的にはこれを「損失回避」の心理と言います。買った値段より安く売ると損失になってしまうし、それならば株価や地価が戻るまでは売りたくないという傾向がある人間の心理的なものが強く出たもの。「人間は得よりも損を重く感じるため、得よりも損を回避しようとするものだ」というのが行動経済学的な考え方の損失回避です。

他の経済学に取り込まれていくことで社会課題の解決に貢献

――行動経済学は今後、どのような用途、分野に発展していくとお考えですか。

 行動経済学が学問として確立されてからすでに40~50年経ちます。そして伝統的な経済学にも、行動経済学は目立たないけれども浸透しています。経済学には労働経済、開発経済、医療経済などさまざまな分野がありますが、行動経済学の概念は、それぞれの分野に適した形で取り入れられて発展しています。

 私が所属する東大では、行動経済学の授業は私の授業のみなのですが、私は経済学科の教員ではなく、経営学科の所属。すなわち、東大の経済学科には行動経済学の授業がないのです。それは個々の経済学に行動経済学の概念が取り入れられて、独自の発展をしているからです。だから今後は、行動経済学単体での発展ではなく、個々の経済学のサブフィールドで、ニーズに応じて発展していくだろう、と私は考えています。

阿部誠さんインタビュー中の写真

 例えば、開発経済であれば、どうすれば開発途上国に環境問題に関心を持ってもらえるようになるかを人間の行動や心理の面から考える。これは1つの例ですが、個々の経済学の中で社会課題の解決に貢献していくのではないかと思います。

(写真:吉成大輔)
※本記事内の製品やサービス、所属などの情報は取材時(2024年12月)時点のものです。

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