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山田長政 遠く離れた異国の地で王となった日本人

2015年6月公開【全1回】

遠く離れた異国の地で王となった日本人

山田長政

 寛永6年(1629年)、シャム(現在のタイ)で、アユタヤ王朝配下の王国、リゴールにひとりの日本人王が誕生した。異国の地で名声を上げ、王にまで上り詰めた日本人。その名は山田長政。彼は40歳前後の若さで亡くなるまで異例の立身出世を果たし、日本とシャムのかけ橋となった。
 長政が誕生したのは、天正18年(1590年)頃。駿河国の駿府(現・静岡市)の染め物屋に育った長政は少年時代、徳川家康が学問を修めたと伝えられる臨済寺で、兵学を学んだ。成長してからは、大柄で屈強な体躯を活かして藩主の籠をかつぐ人夫の職に就く。「仕官を好まず、常に大志を抱いていた」という人物像が伝えられているが、その生涯には謎が多く、海外へ渡った目的も明らかではない。しかし、長政が異国への思いを募らせた背景には、少年時代の駿府での暮らしがあったと考えられる。
 長政が少年の頃、徳川家康が隠居をして駿府に居を移したことで、街は大いに活気づいていた。駿府には外交政策の中枢が置かれ、海外雄飛の機運が高まっていた。まだ鎖国が実施される前の時代、豪商らはこぞって船を仕立てて渡航した。この光景を見た少年長政が「海外へ出て一旗揚げたい」という志を持ったとしても不思議ではない。

山田長政

身を賭して王朝の平安に寄与

 慶長17年(1612年)、ついに長政は23歳で駿府の豪商の船に便乗し、シャムの国都・アユタヤへ渡る。当時、東南アジアは東西交易の中継地として栄えており、国際都市であったアユタヤにはポルトガル、中国、日本など40カ国の人々が暮らしていた。日本人町には、一説によると3000を超える人々が居住したと伝えられる。長政は、日本人町の初代頭領の下で貿易の実務を学び、各国の仲買人たちがしのぎを削る中、貿易家として才覚を発揮するようになる。
 日本人の海外進出が活発になる前、日本とシャム間の貿易はオランダが独占していた。そんな中、頭角を現した長政は、有力な日本人貿易家として江戸幕府の首脳である本多正純らに書状と献上品を送ってシャム使節と日本との間を取り持つなど、両国の親交に多大な役割を果たすようになる。この長政の辣腕外交により、やがてオランダはシャム貿易からの撤退を余儀なくされたという説もある。長政が主導したシャムと日本との貿易はアユタヤ王室に莫大な利益をもたらし、王室財政にも大きく寄与した。
 また、貿易家としての才覚ばかりでなく、日本の軍法にも通じていた長政は戦術家としても実力を発揮していく。元和7年(1621年)に日本人町の頭領として数百人の傭兵を率いる存在になったこの年、スペイン艦隊がシャムに攻め込んだ。この頃、長政の軍勢は水上警備に当たっており、決死の奇襲を仕掛けた結果、スペイン艦隊に勝利し、王朝の平安が保たれることとなった。長政は寛永1年(1624年)にも、スペイン艦隊を破っており、アユタヤを狙う敵から国を守る役割を担うようになっていった。
 商才と武功。両面で名声を高めただけでなく、日本人特有の忠義にも篤かった長政は国王ソングタムからの全幅の信頼を得た。そして渡航から、わずか20年足らずで王朝の最高官位のオークヤーへと出世を果たす。だが皮肉にも、この頃から彼の人生は思わぬ方向へ動き始める。王の死後、王位継承争いに巻き込まれていくのである。
 当時、王朝の実力者であった大臣のカラホムは王位の強奪を画策し、長政を王室から遠ざけるために配下の国、リゴールの王へと推挙。リゴールに赴任している間に、長政が王位継承を進言していた王の遺児をカラホムは次々と殺す暴挙に出る。それを知った長政は亡き王への忠節を守りカラホムへの報復を誓った。だが長政の軍事力や統率力を恐れた何者かの手により長政は毒殺されてしまうのだった。
 天性の知勇の故に王位を狙う時の権力者に疎まれ、非業の死を遂げた山田長政。だが、異国の地で一国の王になったばかりでなく、シャム王朝のために尽力した彼の姿は、日本人の誇りといえるだろう。

文:宇治有美子 画像提供:静岡浅間神社 参考文献=『山田長政 知られざる実像』(小和田哲男著/講談社)

※この記事は、2014年9月発行の当社情報誌掲載記事より再編集したものです。

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