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先人に学ぶ
宇治達郎(医師)
体内を見る胃カメラを開発し内視鏡検査の基礎を築く

2019年4月公開【全1回】

体内を見る胃カメラを開発し内視鏡検査の基礎を築く

 1919(大正8)年、長野県上伊那郡小野村(現・辰野町小野)で生まれた達郎は、その後埼玉県の大宮に移り、旧制浦和中学、同浦和高校、東京帝国大学医学部へと進む。父親は宇治病院初代院長で、大宮の町長や教育委員長などを兼務し、地域に尽くした郷土の要人。父の背中を見て育った達郎もまた医学の世界を志した。
 東京大学附属病院分院の外科に勤務が決まった矢先、軍医候補生として召集され、中国大陸に渡る。大陸各地を転戦した青年医師・達郎の目に、戦地でのおびただしい数の傷病兵はどのように映ったのだろうか。この戦争体験をきっかけに、人命を救いたいという強い思いが芽生えたことは十分に推察できる。
 1946年に復員し、東大附属病院分院に戻った達郎のもとに、胃を患った患者が数多く訪れるようになる。中でも「がん」で命を落とす患者が目立った。当時、胃がんの5年生存率は約20%といわれ、死と直結する病だった。何とか、がんの発生を早期に発見できないか。達郎の思いは日ごとに強くなっていった。

早期発見で多くの患者が救える

 昭和初期、ドイツ人医師によって胃鏡(口から挿入し胃の中を覗く)が発明されていた。しかし消化器を突き破る事故が多発。そのため胃の検査はレントゲン写真を用いるのが主流だったが、診断精度は低く、胃を切開してみると手遅れという事例も多かった。こうした状況を変える新たな検査機器の登場が医学界では待ち望まれていた。
  1947年、達郎は胃に挿入する小型カメラの開発協力を依頼するため、高千穂光学工業(現オリンパス)を訪ねる。医師の立場から食道と胃との関係、胃の構造などを説明し、小型カメラを直接胃の中に挿入したい旨を伝えた。当初は「胃の中に光はない。そんなものは不可能だ」という反対意見もあったが、「胃がんは早期発見できれば、多くの患者の命を助けられる!」と語る達郎の熱意に心を動かされた技術者2人が協力を約束する。
 とはいえ開発の道のりは容易ではなかった。人間の喉の広さは平均14ミリメートルのため、胃に差し込む管はそれ以下でなければならない。胃壁を傷つけない柔軟性のあるゴム管の厚さを除くと、内径はわずか8ミリメートル。その範囲内にレンズやフィルム、電球(暗闇である胃の中を照らす)を搭載するのは至難の業だった。加えて、物資の乏しい時代に部品の調達は難航し、撮影フィルムのコマ送りを操作するために三味線の弦(二の糸)で引き揚げるなど、試行錯誤を繰り返しながら試作機を完成させた。
 当初はフラスコに目張りをして胃袋に見立てて実験を繰り返した。1950年8月には、犬の胃にカメラを挿入する実験が行われた。成功すれば大きな前進となる。執刀に当たった達郎の期待も大きかったが、ここで数々の困難にぶつかる。胃を膨らませるために水を入れて実験したが、胃の分泌物で水が濁り、鮮明な写真が撮れない。そこで、空気を送り込みながらの撮影に切り替えた。
 次にぶつかったのは、写真が胃壁のどの部分を写したものかが判明できないという難問だ。患部が写っても、胃のどの部分かが分からなければ、治療に役立たない。達郎の失望は大きく、一時は断念することさえ考えた。しかし諦めきれずに実験を続けていたある日、意外な形で突破口が開けた。室内の照明をつけ忘れて実験に没頭していると、薄暗い研究室の中でシャッターを切るたび、犬の腹に光が透けて見えたのだ。これで患部の特定が可能になった。

最初のガストロカメラ(腹腔内臓器撮影用写真機)。宇治達郎とオリンパスの技術者たちによってゴム管の先にカメラが装着された。
日本臨床外科学会の後日比谷公園にて、胃カメラ開発メンバーで撮影した集合写真。
診察中の宇治。
最初のガストロカメラ(腹腔内臓器撮影用写真機)。宇治達郎とオリンパスの技術者たちによってゴム管の先にカメラが装着された(左)。日本臨床外科学会の後日比谷公園にて、胃カメラ開発メンバーで撮影した集合写真(中央)。診察中の宇治(右)。
最初のガストロカメラ(腹腔内臓器撮影用写真機)。宇治達郎とオリンパスの技術者たちによってゴム管の先にカメラが装着された(上)。日本臨床外科学会の後日比谷公園にて、胃カメラ開発メンバーで撮影した集合写真(中央)。診察中の宇治(下)。

 同年9月、第4弾の試作機で、人体を使っての胃の内側の撮影を実施。胃の不調を訴えていた達郎の先輩医師の胃内に管を進めると、ハッキリと胃潰瘍の箇所を捉えることができたのである。世界初の胃カメラ発明を成し遂げた瞬間であった。
  ガストロカメラ(腹腔内臓器撮影用写真機)と命名されたこの機器で、後に達郎らは日本最高の発明賞と呼ばれる恩賜発明賞を受賞。しかし受賞に先立ち、胃カメラ発明の3年後に達郎はあっけなく、「私は開業医に向いている」という言葉を残して東大医局を退職。その後の人生を故郷の大宮で町の医師として過ごした。
  達郎の思いを継いだ東大の医師たち、オリンパスの技術者らによって胃カメラの改良と普及が行われ、内視鏡医療の基礎が開拓された。元来謙虚な達郎は、胃カメラ開発に関わったことを周囲に話すことはなかったという。だが、現在の医療の目覚しい発展に貢献した人物として、その功績は世界中からたたえられている。

文:宇治有美子 画像提供/医療法人社団 宇治病院
※この記事は、2018年11月発行の当社情報誌掲載記事より再編集したものです。

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