井上 武志 Takeshi Inoue
SERENDIE – stories
STORIES / INTERVIEW
介護現場の暗黙知から、健康を支えるエコシステム を。三菱電機のスクラムチーム「Omoiyari」3ヶ月の挑戦。
2026.04.15
高齢化の影響により、日本における介護施設の需要は増え続けている。しかし、施設の数や介護従事者の数は足りていない。そうした状況に対し、介護従事者の業務効率化サービスやカメラ機器などを活用した見守りサービスなど、介護施設のDXが進んでいる。
一方、介護施設の経営という側面では解決すべき課題がまだ多い。その一つが、入居率の改善だ。一般的に、施設の入居率が97%を下回ると、経営の黒字化が難しいと言われている。その原因の多くが、事故や病気などによる入居者の入院にある。
経営課題と入居者の事故。その両方の解決を目指すのが、三菱電機と三菱電機デジタルイノベーション(以下:MEDigital)のスクラムチーム「Omoiyari」だ。同チームがスクラム活動を通じ3ヶ月で開発したのは、介護事業者の暗黙知を読み解くことによって生
まれた予兆検知サービス だ。現在、施設での検証を経て事業化に向けて動き始めている。なぜ、入居率という課題に着目したのか。また、どのようにスピード感を持ってサービスを開発したのか。MEDigitalの井上 武志氏、三菱電機の上野 貴之氏、清水 俊介氏に話を聞いた。
三菱電機デジタルイノベーション株式会社 流通・ヘルスケア事業 ライフチャネルソリューションサービス営業部長
2001年入社。長らく介護事業の担当営業としてキャリアを重ね、現在は介護・図書館・流通の3事業を統括する。本プロジェクトでは、長年の経験と熱意を原動力にプロダクトオーナーを務めた。
上野 貴之 Takayuki Ueno
三菱電機株式会社 DXイノベーションセンター システム連携企画部
2021年入社。顧客課題を起点とした新規事業開発やアジャイル開発の推進に従事。本プロジェクトではスクラムマスターとして、心理的安全性の構築やチームビルディング、開発プロセスの設計を主導した。
清水 俊介 Shunsuke Shimizu
三菱電機株式会社 DXイノベーションセンター データビジネス推進部
三菱電機インフォメーションシステムズ株式会社(現三菱電機デジタルイノベーション株式会社)に2015年入社。2023年から三菱電機に逆出向。データ分析のスペシャリストとして、AIや機械学習モデルを用いた予測のほか、インサイトの発見に従事。本プロジェクトでは、介護記録データの解析および生成AIを用いた予兆検知ロジックの構築を担当した。
事故予兆で、三つの課題を解く
――本日は、三菱電機デジタルイノベーション株式会社(以下:MEDigital)と三菱電機 DXイノベーションセンター(以下:DIC)を中心に組成したスクラムチーム「Omoiyari」と現在開発している「予兆検知サービス」について詳しく伺います。まず、「Omoiyari」について教えてください。
上野:「Omoiyari」は、健康寿命の延伸を目的としたサービスの開発を行っているスクラムチームです。MEDigitalからは4名。DICからは、私やデータ分析担当の清水、そしてデザインのスペシャリストなど7名と、総勢11名で活動しています。
――次に現在事業化に向けて進められている介護施設向けのサービスについて、概要を教えてください。
井上:介護施設に入居されている方の事故や病気リスクを予兆検知するサービスです。このサービスは3つの課題を解決します。
一つ目は、入居者の方の事故を防止すること。事故が起きれば、入院につながり、ご利用者様のADL(日常生活動作)の低下や、ご家族の方の精神的・金銭的負担につながってしまいます。
二つ目は、介護スタッフの暗黙知を介護施設の資産にすること。介護現場では、利用者の体温や血圧、食事量といった数値データに加え、「今日はいつもより活気がない」といったスタッフの気づきが介護記録として日々記録されています。これらの膨大な記録から事故を予兆するのは、これまではベテランスタッフの「経験と勘」に頼らざるを得ませんでした。
本サービスでは生成AIを活用することで、経験の浅いスタッフの方でも「今日はAさんを重点的に見守ろう」と、適切なケアの優先順位を判断できるようにしています。
三つ目は、介護施設の入居率を改善すること。介護施設の経営を維持するには、一般的に稼働率97%を維持しなければなりません。入院によって空室が続けば、経営リスクとなり、ひいては利用者の方にも影響が出ます。
ユーザー視点、スタッフ視点、経営視点。それぞれの抱える課題を解決するのが、この予兆検知サービスになります。
三菱電機デジタルイノベーション株式会社 流通・ヘルスケア事業 ライフチャネルソリューションサービス営業部長 井上 武志
プロジェクト開始の危機「データ不足」
――そもそもプロジェクトが始まったきっかけについて教えてください。
井上:私はMEDigitalで20年以上介護事業に携わってきました。さまざまな介護施設に関わる中で、「利用者の健康寿命を延ばしたい」という想いがどんどん芽生えてきました。その想いを形にするために介護施設のデータを何か生かせないかと考え、三菱電機のDICへ相談したのがきっかけです。
しかし、相談早々思わぬ壁にぶつかりました。元々、考えていたアイデアではデータが足りないことがわかったのです。必要なデータ量を得るためには、少なくとも数ヶ月、長くて1年程度かけなければなりませんでした。
上野:通常なら一旦中止となるのが、従来のメーカー型開発の常識かもしれません。三菱電機側にも、そこでプロジェクトが消滅してもおかしくないという空気がありました。
三菱電機株式会社 DXイノベーションセンター システム連携企画部 上野 貴之
清水:ただ、井上さんには介護業界に対する並々ならぬ熱量があった。その思いに応えたいと思っていました。そこで、既存の「介護記録」のデータだけで何かできないか検討したいと提案しました。
井上:自社だけで取り組んでいれば、おそらく「データが足りないから無理だ」と諦めていたでしょうね。でもDICのチームが「今ある資産を再解釈して、今できることで価値を出そう」と言ってくれた。この柔軟な突破力と前向きな姿勢があったからこそ、プロジェクトが頓挫することなく、無事始まることができました。
まだ解かれていない課題を見つける
――プロジェクトが無事立ち上がった後、3ヶ月のスクラム活動の活動内容について教えてください。
上野:Serendie®のスクラム活動は、課題探索に約2週間、プロダクトの検証に約2.5ヶ月を割きます。このチームは週に2日しか集まることができなかったので、課題探索のフェーズでは、3日間毎日4時間膝を突き合わせて議論をしていました。
その上で、まずどのような課題を解決すべきなのかを考えるところから始めました。理由は二つあります。一つは、私たちのチームの目的である「健康寿命の延伸」につながるサービスをつくるため。もう一つは、今後の事業展開を見据えて、複数の介護施設が抱える課題解決に資するものにするため。データを活用することは決まっていましたが、「データで何ができるのか」から考えると解決策の規模が小さくなります。介護施設に関わるステークホルダーがどんな課題を抱えているかから考えていきました。
井上:前提として、介護施設の収益は「サービス単価×有床数(部屋の数)×稼働率」で決まります。サービス単価は介護保険制度に基づき決まっているため、勝手に変えることができません。有床数を増やすには、多額の投資が必要であり、どの介護施設にも適用できるサービスにならない。そうすると、変えられるのは「稼働率」になります。
「稼働率」とは、部屋が埋まっている数の割合です。これを上げるには、介護スタッフの働き方の効率化や入退去率への介入などがあります。前者に関して言えば、記録業務の効率化や見守りサービスなど、現場スタッフの負担を軽減する取り組みはすでになされています。
そこで、後者の取り組みの中で、ステークホルダーの困りごとと介護記録のデータが使えるものの交点を考えた時に、解決すべき課題として仮説を立てたのが「入居者の転倒リスク防止」でした。入院・通院のリスクとして、高いと考えたからです。また、入居率の改善は、入居者本人や家族の視点で見ても、健康への不安や医療費負担の増大への対策という点で価値があると判断し、この線で検証を進めることにしました。
「あると便利」を「ぜひ、欲しい」に
――「転倒リスクの予兆」という切り口を検証するために、どのようなプロセスを経ていったのでしょうか。
上野:検証期間は、実際に動くアプリをプロトタイプで作成し、介護施設の経営者やスタッフの方に見せてフィードバックをもらう、というサイクルを繰り返しました。プロトタイプの作成には、生成AIを駆使した「バイブコーディング」という手法を取り入れました。バイブコーディングは、エンジニアではなくとも、日本語の指示で実際に動くアプリをつくる手法です。これによって、フィードバックや議論の内容を即座にアプリへ反映していました。
――介護施設の方からはどのようなフィードバックや気づきがありましたか。
上野:まず「転倒リスク」に特化したサービスをお見せしました。しかし、その時の反応が「あると便利ですね」に留まっていたんです。そこで、どれくらいの価値があるか数字で見せる必要があると考え、転倒に伴うコストを概算して提示しました。すると、「転倒以外にも、様々な要因で入院・通院が発生するから、それもわかるとありがたい」というフィードバックがありました。なので、さらに入院・通院につながりそうなリスクを含めて総合的に事故リスクを検知するサービスへと改善していきました。
井上:予兆検知サービスへと変わると、経営者の方やスタッフの方から、「これならお金を払ってでも使いたい」という反応に変わったんです。バイブコーディングのおかげで、早く改善ができただけでなく、常に実物を見せながら対話ができました。ビジネスとして成り立つかだけでなく、スタッフの方から見た使い心地も検証できたのが非常に良かったと感じています。
開発中の予兆検知サービス
○×の正解より、現場が動くための「根拠」
――ビジネスとして成り立つには、当然、予兆検知のロジックが機能する必要があると思います。既存の介護記録のデータから、どのようにロジックを組んでいったのでしょうか。
清水:これにはかなり苦労しました。故障・事故の予測は、事故が起きたデータの件数が少ない上に、法則性をデータから見つけるが難しいんです。例えば、バイタルデータが通常通りでもちょっとした段差や不注意で事故は起こり得ます。
それでも最初は、問題を簡略化するためにバイタル情報や水分摂取量、申し送り頻度など数値で表せるデータのみを用いて予測モデルの構築を試みました。しかし、期待した結果は得られませんでした。
三菱電機株式会社 DXイノベーションセンター データビジネス推進部 清水 俊介
清水:次に、数値ではなく、介護記録の文章そのものを使用する、つまりテキストデータを入力情報として予測モデルを構築する方針に切り替えしました。しかし、ここにも壁がありました。介護記録に記載されている内容の基準や単語の意味が介護士によって異なったのです。
例えば、「ヒヤリハット」とみなす基準が、「車椅子を押していたので危なかった」という場合もあれば、「一人で歩いていたから危なかった」という場合もある。
記載内容の基準や単語の意味が異なると、AIでの学習の精度は落ちます。
また、介護記録にはいろんな内容がメモされており、見るべき要素が素人にはわからない。現場のベテランスタッフの皆さんは、そうした情報とご自身の経験で事故を予兆検知していた。まさに「暗黙知」の世界でした。
そこで、どのような意図で記録をしているのか、具体的にどんな単語を見て判断させるのかを、そもそも知るところから始めました。介護スタッフや介護分野の知見を持つ社内メンバーにヒアリングを行い、判断ロジックを整理し、解析モデルに反映させていきました。その結果、介護記録から、事故可能性のある方をある程度予測できるようになりました。ただ、正答率100%の精度を出すことは不可能なため、誤検知の許容範囲を現場の方に伺ったところ、思わぬ発見がありました。
現場のニーズは、単に「事故が起こるか」を当てることではなく、「誰を優先的に見守るべきか」という優先順位を知ることだったのです。
井上:「この記述があるから、この人のリスクが高い」と気づきを与えてくれる。それだけで、スタッフは確信を持ってケアに動くことができます。的中率という数字の正解よりも、現場が納得して動けるための根拠を持ってリストアップする。それが、現場のスタッフが求めていたことでした。
上野:最初の転倒リスクサービスから、最終的に経営者も現場のスタッフにも求められるサービスへと転換できたのは、介護施設で働く皆さんと一丸になったからこそだったと感じています。
介護データを社会の共通財産にする
――今後、サービスをどのようにブラッシュアップしていくのか。そして、サービスを通じて、どんな未来を考えているのかを教えてください。
清水:介護施設のスタッフの方が使う上での満足度を上げていきたいです。そのために、現場からのフィードバックを受けてさらにモデルを磨き込んでいきます。特に重要なのが、AIに与えるデータとプロンプトの改善です。予兆検知のAIモデルを介護の現場で本当に使えるレベルにするには、「どう指示を出せば、現場が納得する根拠が出力されるか」というチューニングが必要です。今も現場の声を聞きながら、高頻度でプロンプトを修正し続けています。
井上:介護現場のデータは、日常生活の中での微細な変容を捉えられる財産だと考えています。このデータを他業界とも共有できれば、新しい健康産業にもつながるはずです。最終的には社会全体で健康寿命を支えるエコシステムを作り、一人でも多くの人が元気に過ごせる社会をつくりたいと思います。