和食シリーズ企画第四弾 日本人の食卓―100年の歩みを辿る和食シリーズ企画第四弾 日本人の食卓―100年の歩みを辿る

#21 ― 出前・宅配・デリバリー篇

「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されてから数年が経ちます。
「このままでは衰退する可能性がある食文化」とされた和食は、あれから歩みを前へと進めることができたのでしょうか。
2021年に創立100周年を迎えた三菱電機は、日本の暮らしとともに歩み続けてきました。
これからも家電メーカーとして日本の食文化に寄り添っていくために、
この100年間の日本人の食卓、そして家電の歩みを振り返り、次なる100年を考えていきます。

和食シリーズ第4弾「日本人の食卓―100年の歩みを辿る」もいよいよ大詰めを迎えてきています。第21回のテーマは、私たちの日常に欠かせなくなった「出前・宅配・デリバリー」を取り上げます。「出前といえば、そば・うどん、鮨」だった昭和の頃、ピザのデリバリーの登場、そしていま主流となっている宅配専門サービスまで。「出前」はどのように「デリバリー」や「宅配」に形を変えてきたのでしょうか。

出前を変えた、曲乗り出前自転車の出現

近年では飲食店から家庭に食べ物を届けるサービスは、「宅配」「デリバリー」という呼称がよく使われるようになりましたが、いまから数十年前、飲食店から家庭やオフィスに食事を配達するサービスはそば・うどんや鮨のほか、中華、洋食、喫茶店など業種を問わず、ほとんどが「出前」と呼ばれていました。

「出前」という言葉が、客先に料理を届ける商いを指す言葉として広く一般的に使われるようになるのは明治時代のこと。明治時代初頭には、酒屋や西洋料理店の新聞広告にも「出前」という文字が躍るようになります。

そして昭和初期にかけて自転車が庶民へ浸透するにつれて、あの曲乗りのような蕎麦の出前姿が見られるようになってきます。1929(昭和4)年6月27日の朝日新聞に「夏の生活~危いッ街頭の曲芸師そば屋の出前苦心物語」と題した記事が掲載されます。

記事中で出前持ちはこう語っています。

「最初はこはれないものを盆に載せて、まづ歩いて練習しますがね。いまでは一つの盆にどんぶりを六つ位のせて五層都合三十位のどんぶりを自転車で運びます。この位になるにはまあ二年位かかるだらうね……自転車で早く運ばないとそばがのびまさあ。一番恐ろしいのは四つ角、何しろ急停車が出来ねえからな」[註1]

朝日新聞社 - 『アサヒグラフ』1955年8月10日号。発行所:朝日新聞社。 "Asahigraph", August 10, 1955 issue.

昭和の風俗評論家、植原路郎が書いた『蕎麦辞典』(東京堂出版、1972)にも高く蕎麦を積み上げるコツが描かれています。

「手持ちは親指、人指、子指三本で台を支え、中指、薬指二本は内側へ折りまげて、台(膳)の調節をする。手持ちは小回りな動作であるから、持ち数は一、二段とし、十二、三個まで。これに対して「肩かけ」は台を肩に託し、手で調節をとる方法で、体力と経験によって持ち数は異るが、かけで三十、もりで五十が限度。この方法は傘をさすことも出来るので、雨の日にも便利であった」 [註2]

数十枚の蕎麦を担ぎながら傘をさし、自転車で出前をするとは現代では信じられませんが、当時としてはそう珍しい光景ではなかったようです。1958年に発売されたHondaスーパーカブの開発にあたり、創業者の本田宗一郎氏が「これはそば屋さんの出前持ちが、そばを肩にかついで片手で運転できるバイクだ」と号令をかけたのは知られた話です。

しかしモータリゼーションが急速に発展した1960年、道路交通法が改正され、原付にも免許が必要になりました。それまで野放し状態だった自転車の片手運転も禁止されることに。

その後1960年代、スーパーカブの荷台に取り付ける出前機が業界を席巻していきます。第二次世界大戦後にもしぶとく生き残った曲芸的な蕎麦の出前は1960年代前半にあっけなく姿を消すことになりました。

荷台に出前機が搭載された、Hondaスーパーカブ。写真の出前機は日本そば・一般食堂向けのタイプ。他に寿司店向け、中華店向け、自転車用などの型もある。

ハレ食の座が外食へと移行した高度成長期

戦後の日本を代表する作家で美食家でもあった池波正太郎は、1989年に上梓したエッセイ集『ル・パスタン』のなかでその昔の出前の蕎麦の位置づけをこんなふうに記しています。

「むかし、東京の下町では、ちょいと腹が減ったときとか、気のおけない客をもてなすときなど、店屋物を取るのだが、そうした場合、圧倒的に蕎麦が多かった。しがない職人の家では、鰻や天ぷらは高価過ぎて手が出ない」 [註3]

池波正太郎は1923(大正12)年浅草生まれ。このエッセイでは池波が小学生時代のことを回想しているので、昭和初期の下町の気風が記されています。当時、蕎麦の出前はちょっとしたもてなし食といった風情でした。

それから数十年後、高度成長期には「会社勤めの夫と専業主婦の妻」を軸とした核家族が当たり前となりました。女性は学校を卒業すると結婚までの一定期間就業し、「結婚・出産」を機に退職して家庭に入る。「寿退社」後は専業主婦になり、家事すべてを引き受けるという風潮の時代でした。

一方、本連載のバックナンバー「#20 ― 日本人の食卓を変えた即席麺篇」にもあるように1960年代にはインスタント食品が一大ブームに。1970年代前半には冷蔵庫、炊飯器とも家庭への普及率が90%を超えています。

家電製品の充実により、家事自体は省力化されました。家事を手作業でこなしていた当時のシニア世代を中心に「出前≒ぜいたく」という風当たりも強かったようですし、しかも、時は1970年の“外食元年”。食文化の転換点にさしかかり、出前は「もてなしの食」「ちょっとしたハレの食」といったポジションも外食に譲ることになっていくのです。

出前がデリバリー・宅配へと変わった、1980年代

1985年9月30日、ドミノ・ピザ ジャパンが日本初の宅配ピザ店を東京・恵比寿にオープン。「宅配ピザ」という新しい言葉・コンセプトを生み出し、そば・うどん店に象徴される従来型の「出前」に対して、「デリバリー」という新しい価値観を提案したのです。

「「すばらしいできばえのおいしいピザを安全運転で30分以内にお客様にお届けする。」これが私たちドミノ・ピザのご注文頂いたピザ1枚1枚のゴールです」(ドミノ・ピザ ジャパンHPより) [註4]

高度成長期にぜいたくなものだった出前が、日常のデリバリーへと変質していくその象徴がデリバリーでした。宅配専業にしてコストを抑え、到着時間の目安を示す。このスタイルは従来の出前ビジネスとは一線を画すものでした。果たして、宅配ピザ事業は活況を呈し、1987年にピザーラがデリバリー業態に参入。もともとレストラン形式でピザを提供していたピザハットも1991年にデリバリーをスタートさせます。

“出前”から“デリバリー”への転換点の象徴、デリバリーピザ。道が細く、渋滞の多い都内を想定してドミノ・ピザ ジャパンとメーカーが宅配用三輪バイクを開発。画像提供:ドミノ・ピザ ジャパン

後にその流れは他業態にも波及します。1998年には岐阜で宅配専門の「寿司衛門」(2年後に店名を「銀のさら」に変更)がサービスイン。以降、モスバーガー(2006年)やマクドナルド(2010年)といった既存のハンバーガーチェーンも自前のデリバリーサービスに乗り出すようになり、戦後、特別な日のぜいたくとして認知されていた出前は、デリバリーという日常のサービスへと変質していきました。

飲食店とデリバリービジネスが独立独歩となった2000年以降

そして2000年以降、出前館やUber Eatsなどデリバリー専門のサービスが次々と立ち上がります。当初は配達員の不足や飲食店側のパッケージングの不備などもありましたが、飲食店の人手不足も手伝って、ファミリーレストランなど様々な業態の飲食店がデリバリー専門サービスを採用するようになりました。

2020年のコロナ禍以降は、この流れが加速。各社とも売上や事業規模が一気に拡大しました。もっとも「出前」が「宅配」「デリバリー」になっても、1960年代同様、交通安全の意識は課題のようで、近年では警視庁ほか各県警等で安全講習会が頻繁に開かれるようになっています。

2021年には「日本フードデリバリーサービス協会」が発足し、各自治体やデリバリーサービスが連携しての、ドローンを使った空飛ぶデリバリーサービスの試験配送も行われるようになりました。

昭和の頃、ハレの日のぜいたくだった出前は、平成には日常に欠かせないデリバリーへと変質しました。そして令和のいま、人口減少や高齢化、労働力不足に伴う社会課題を解決するサービスとしての期待も寄せられています。

江戸時代に個人店の食べ物お届けサービスに端を発した「出前」。職人芸とも言える昭和初期の自転車の曲乗りスタイルを経て、高度成長期には他国に類を見ない出前機まで開発されました。バブル期にバイクとともに日本独自の仕様へと変貌したデリバリーは、コロナ禍であらゆる食の宅配を取り込み、新たな形へと変化しようとしています。日本社会の変革に伴って進化し続けてきた出前は、デリバリーや宅配へと姿を変えて「日本人の食卓」を支える社会インフラとなりつつあるのかもしれません。

構成・文/松浦達也
2024.03.04

[1]「夏の生活〔23〕危いツ街頭の曲藝師 そば屋の出前苦心物語」『朝日新聞』1929年6月27日朝刊、7面。

[2]植原路郎『蕎麦辞典』東京堂出版、1996年、P161(※書影は2002年発行の改訂新版)。

[3]池波正太郎『ル・パスタン』文藝春秋、1989年(載録作品「蕎麦」より)。

[4]『ドミノ・ピザの紹介』ドミノ・ピザ コーポレート情報、https://www.dominos.jp/corporate/dominos新しいウインドウが開きます (2023年12月22日閲覧)。

参考文献

村瀬忠太郎『蕎麦通』四六書院、1982年。

杉山宗吉『すしの思い出』養徳社、1968年。

新島繁『蕎麦の事典』柴田書店、1999年。

岩崎信也『江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?』光文社新書、2007年。

岡田哲『たべもの起源辞典』(ちくま学芸文庫)、2013年。

『自転車から見た戦前の日本』自転車文化センター、https://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100129新しいウインドウが開きます

『Cub|Honda』本田技研工業株式会社、https://global.honda/jp/Cub/新しいウインドウが開きます

『“ピザ不毛地帯”だった日本に、なぜ宅配ピザは根づいたのか?』Colal Capital、https://coralcap.co/2022/07/ernest-higa-interview01/新しいウインドウが開きます

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