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菊池大麓(数学者) 西洋数学と共に持ち帰った紳士の精神
2015年2月公開【全1回】
西洋数学と共に持ち帰った紳士の精神
江戸末期から明治にかけて、英国で学んだ本格的な西洋数学を初めて日本に導入し、数学発展の礎を築いた人物がいた。数学者、菊池大麓である。東京帝国大学(現東京大学)総長、文部大臣、理化学研究所初代所長などを歴任した彼の功績は、2度の英国留学の体験なくてしては語れない。「少年と言ふものは存外発達して居るもので、(中略)洋行して、学問をしなければ駄目だとばかり、思つて居た」。後年、こう語ったように、10歳に満たない頃、菊池は既に、海を渡って学問を修めるという大志を描いていたのである。
菊池大麓が、津山藩の藩医にして高名な蘭学者・箕作阮甫(みつくりげんぽ)の孫として生を受けたのは、安政2年(1855年)。幼少の頃から彼の秀才ぶりは際立っていた。6歳で幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ:東京大学の前身)に入学、9歳になると早くも20代の大人に学問を教える「教授」の肩書が与えられるほどであった。
慶応2年(1866年)、最初の留学のチャンスが訪れる。最年少の11歳で、幕府派遣の英国留学生に選抜されたのだ。ロンドンに着いた菊池は「その賑やかな事、そのおもしろい事、小児心にも丸で極楽へでも来た心地」と語っている。西洋文明を目の当たりにして大きな衝撃を受けたようだ。折しも幕末の動乱期、一旦は徳川幕府瓦解によって留学後2年で帰国せざるを得なくなるが、明治3年(1870年)、今度は明治政府派遣の留学生として再び渡英を果たす。そして、ロンドンのユニバーシティ・カレッジ・スクールに入学、瞬く間に頭角を現した。
あの日本人には歯が立たない
彼の傑物ぶりを示すこんなエピソードがある。留学生である菊池が数学の試験の度に主席を占めたため、英国人の同級生が悔しがってこの栄光を何とかか奪い返そうとしたのだ。菊池が事情により2週間ほど欠席した際、級友らは絶好のチャンスとばかりにノートを貸さないように示し合わせ、いつも2番手だったS・ホワイトという学生を主席に押し上げようと図った。しかし、結果は菊池の完勝。負けず嫌いの英国学生も、「あの日本人にはとうてい歯が立たない」とさすがに兜を脱いだそうだ。
この出来事には実は、裏話がある。圧倒的な能力を持ちながら、勤勉でおごらない菊池の人格を認めていたホワイトが毎日ノートを届け、陰で力になっていたのである。「彼の高潔な紳士道ほど私を深く感動させたものはない」と、菊池は生前、親しい人によくもらしていた。貴族の子弟と共に学んだことで、紳士の精神を学び取ったのであろう。後世まで謹厳そのものの紳士と讃えられた菊池は、「イギリス的教えでは、ウソをつくのが最大の罪悪である」と、清廉潔白な紳士教育を子孫にも徹底した。
ユニバーシティ・カレッジ卒業後、ケンブリッジ大学に入学。ここでも彼は優秀な成績を収め、数学・物理学の成績優秀者だけに与えられる称号、ラングラーを取得する。明治10年(1877年)に帰国後、22歳の若さで東京大学理学部教授に就任。数学の教育制度を整える一方で、少年期に英国で受けた感動を忘れることなく初等教育に力を注ぎ、明治21年(1888年)『初等幾何学教科書 平面幾何学』を刊行して幾何学教科書の基礎を築いた。また、教育者としても藤沢利喜太郎、高木貞治といった世界的数学者を育てるなど、日本の数学界に彼が残した業績は計り知れない。
明治37年(1904年)、日英同盟成立の陰の功労者として男爵が授けられたが、人一倍自慢話が嫌いな彼は親族にさえこの名誉を知らせなかった。晩年、多忙な生活を送りながら近所の小学校の校長を務め続けた菊池は、子供たちに能力だけでなく、人格が重要であるという紳士道を伝えたかったのだろう。明治期に海を渡った菊池大麓は西洋数学と共に、英国の高邁な道徳観をも日本に伝えたのである。
写真提供:東京大学大学院数理科学研究科/大塚俊(『初等幾何学教科書 平面幾何学』の撮影) 文:宇治有美子
※この記事は、2013年9月発行の当社情報誌掲載記事より再編集したものです。
- 要旨 菊池大麓(数学者)
- 西洋数学と共に持ち帰った紳士の精神
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