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先人に学ぶ
田中舘愛橘(物理学者) 物理学の基盤を築いたグローバル精神の先駆者

2015年2月公開【全1回】

物理学の基盤を築いたグローバル精神の先駆者

「地球には二つの衛星がある。一つはもちろん月だ。もう一つは日本の田中舘博士だ。彼は毎年1回地球を回ってやってくる」
 物理学者・田中舘愛橘の国際舞台での旺盛な活動に対して、スイス人のノーベル賞物理学者のギヨーム博士が述べた賞嘆の言葉である。万国地震学会、万国学術研究会などの委員を歴任し、明治21年(1888年)から数えること22度外遊。出席した国際学術会議は68回を数える。
 こうした活躍は、彼が生まれ育った時代と無縁ではないだろう。田中舘が誕生したのは、安政3年(1856年)。欧米諸国が日本に開国を迫り、明治維新へと向かう激動の時代だった。福岡(現・二戸市)に、盛岡藩の武家の長男として生まれた彼は、当初立派な武士になることを念頭に育てられた。しかし、田中舘が12歳の時に明治維新が起こる。「これからは学問の時代」という父の助言に従い、西洋列強諸国に負けない国造りのために、武門から学問の道へ舵を切った。
 盛岡から上京後、慶応義塾や東京開成学校などを経て22歳で東京大学理学部に進学。ここで、その後の運命を決定づける人物に出会う。イギリス人教授のユーイング博士だ。同博士から機械工学を学んだのを契機に、地磁気を正確に測定する機器を完成させた。その論文は日本の学会報告書やロンドン王立協会誌にも発表されている。
 こうした実績も認められ、明治21年(1888年)田中舘は初めて海を渡る。当時の文部省の命を受け、イギリスのグラスゴー大学へ留学が決まったのである。港で出迎えたユーイング博士の歓待を受けた田中舘博士は、グラスゴー大学で講義を受け持つなど、名目上は留学生とはいえ客分としての扱いを受けたといわれる。
 留学中は、絶対温度の導入などで知られる世界的な物理学者、ケルビン卿の下で最先端の物理学を学んだ。そればかりでなく、宿舎代わりに家を間貸ししてくれたケルビン卿と寝食を共にしたことで生き方までも影響を受け、必要とあらば臆せずに自己主張する国際感覚も身につけていった。

国際舞台で一歩も引かない強さ

 こうした経験が生きた後年のエピソードがある。明治31年(1898年)に、世界各国が協力し、地磁気や重力などの観測所を設けるための万国測地学協会の会議がドイツのシュツットガルトで開かれた時のことだ。
 地球上の同一緯度上に設置予定の5、6カ所の観測所のうち、日本にその一つを置くことが前もって決まっていた。ところが協会は、日本にとって受け入れ難い要求をしてきた。当時、まだ発展途上国であった日本の物価が安いという理由だけで、観測所設置のために支払われる予算が他国に比べて低かったのだ。この差別的な扱いに対し、日本代表として出席していた田中舘は、わずかばかりの報酬では、優秀な研究者を辺境の観測所に配置できないと主張。毅然とした態度で「各国平等でなければ、引き受けかねる」と明言し意見を通したのだった。協会の会長を相手に一歩も引かない姿勢を貫き、国際舞台で渡り合える日本人がいると強く印象づけたのである。

数多くの国際学術会議の委員を務めた田中舘。
数多くの国際学術会議の委員を務めた田中舘。国際連盟の知的協力委員会では、同じ委員を務めていたアインシュタインやキュリー夫人などとも交流を深めた。

 田中舘は物理学者として、世界に誇る功績を数多く残している。明治24年(1891年)に発生した濃尾大地震の際、激震地域の磁気測量のために岐阜県根尾村(現・本巣市)に派遣され、調査の結果、地震で地磁気が変化することを発見した。これらの活動と並行して、物理学者で随筆家としても著名な寺田寅彦、原子モデルで有名な長岡半太郎など、科学発展の原動力となる学者を育て上げることで、近代日本の基盤を整えたのである。
 寺田は田中舘について「先生はいつも日本を背負って、死ぬ気でやってこられた」と語っている。田中舘の生涯は、西洋に負けない日本のために必死に学び、精進を重ねた日々であった。


写真提供:田中舘愛橘記念科学館 文:宇治有美子 監修:田中舘愛橘会

※この記事は、2014年3月発行の当社情報誌掲載記事より再編集したものです。

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