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先人に学ぶ
高峰譲吉(化学者)
世界に先駆ける新薬を生み出し、日米で輝しい存在感を示した化学者

2018年2月公開【全1回】

日本の麹と西洋化学を応用し世界に先駆ける新薬を生み出す

 高峰譲吉の生まれは、江戸末期の1854年。父は加賀藩で医師を務めながら、火薬原料の製法を研究していた。医学と化学を扱う父を見て育った譲吉はその影響を少なからず受けたはずだ。
 譲吉は10歳で藩に選抜され長崎で語学を学び、15歳から明治政府が西洋化学導入を目的に新設した学問所で外国人教師に実験・分析の基礎を学ぶ。その後、25歳で工部大学校(東京大学工学部の前身)応用化学科を主席で卒業し、工部省の命令により3年間の英国留学に出る。現地では先進技術を見て学ぶ一方、最新の化学を日本固有の産業に応用し、新たなものを生み出そうと志を持つようになる。
 帰国した譲吉は農商務省に入省し、各地の産業を調査して回った。とりわけ、母の実家が造り酒屋だったことから日本酒造りに関心を抱いていた。そうした中、米国出張の機会を得る。この出張で譲吉は妻となる米国人女性とその家族に出会う。また、国際博覧会で化学肥料の原料・燐鉱石を目にし、日本の農業発展のために化学肥料の導入が有効と考え、帰国後、当時を代表する実業家・渋沢栄一を説得。1887年に日本初の化学肥料製造会社を設立した。譲吉は翌年農商務省を退職し、技術担当として肥料の製造と事業運営に自ら携わっていった。
 事業の傍らで、譲吉は独自の研究に着手する。米国出張中に、ウイスキーの製造に日本酒造りで使う「麹」を利用するアイデアを思いついていた。ウイスキー製造ではまず大麦を発芽させ、麦芽に含まれる酵素の力でデンプンを糖化する。日本酒造りでは麹菌が生成する酵素を利用してデンプンを糖化するという違いがある。
 大量の麦芽づくりに手間がかかるとみた譲吉は、麦芽の代わりに麹を用いれば効率的に製造できると考え、麹の研究を行っていた。
 そこに朗報が届く。ウイスキーの原液を全米に供給するシカゴの企業ウイスキー・トラストが譲吉のアイデアに興味を示し、本社で実験してみせてほしいと言ってきたのだった。先の出張中に譲吉のアイデアを聞いていた妻の両親が同社に売り込み、渡米を促したのである。こうして1890年、譲吉は家族を伴い、麹を携え、米国に渡った。

火災ですべてを失うも麹から得た酵素で新薬を創製

 渡米後、譲吉はウイスキー・トラストのもとで公開実験を重ね、社長から絶大な信頼を得る。そして、わずか2年ほどで大規模な製造実験を行うまでとなった。しかし、実験が進むにつれ、譲吉の製造法を敵視する地元の麦芽製造業者から陰日なたに妨害を受ける。煽動された職人たちが反対運動を起こし、命の危険まであった。それでも譲吉は耐えて研究を続け、いよいよ本格的な試験醸造までこぎつけた。
 ところがその前夜、試験場で火災が起こる。譲吉も駆けつけたが、私財を投じ心血を注いできた麹室は全焼。反対派による火災と噂された。
 落胆失望のうえに心身の疲労がたたった譲吉は持病が悪化し、手術で九死に一生を得るといった状況。それでも再起を誓う譲吉だったが、入院中、ウイスキー・トラストは社長の方針に反対する勢力の反発により、会社自体が解散に追い込まれてしまう。譲吉は志半ばで断念せざるを得なかった。1893年のことである。

日本で製造・販売された「タカジアスターゼ」(左)と「アドレナリン」(右)の薬の箱。
日本で製造・販売された「タカジアスターゼ」(左)と「アドレナリン」(右)の薬の箱。

 失意の譲吉を救ったのは、ウイスキー造りで得た副産物ともいうべき、ある物質だった。
 実験を繰り返していた中で、譲吉は特定の麹菌が強力な酵素を生成することを発見していた。それは従来の「ジアスターゼ」より消化能力が格段に優れていた。譲吉はこれを「タカジアスターゼ」と名付け、1894年に特許を出願した。
 当時「ジアスターゼ」の存在は知られていたが酵素の研究は進んでおらず、譲吉の発見は学問的にも大きな成果だった。これをきっかけに酵素製剤という薬の領域が発展していく。
 譲吉は米国の製薬会社と契約を結び、「タカジアスターゼ」は実用製品化されて世界に広がっていった。しかし、日本での製造販売権だけは譲らなかった。日本の産業育成に貢献しようとの思いもあっただろう。譲吉は日本人の青年にその権利を委ねる。後にその青年の会社は三共(現・第一三共)として大きく発展していく。
 その後も譲吉は数々の業績を残す。なかでも1900年には助手・上中啓三の協力を得てホルモンの一種「アドレナリン」の結晶化に世界で初めて成功し、特許を得る。「アドレナリン」は止血剤などとして普及し、今も使われている。
 1922年、譲吉は67歳で生涯を閉じた。米国の新聞はその業績を紹介し、死を悼んだ。幕末・明治の変革の時代に先進技術を学び、伝統技術を取り入れながら、独創的な価値を追求し続けた高峰譲吉。その姿勢と志は、先駆的な世界的発明を可能にし、今にその名を残した。

文:宇治有美子 資料・画像提供:金沢ふるさと偉人館
※この記事は、2017年10月発行の当社情報誌掲載記事より再編集したものです。

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