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第9回 ヘルスケア産業のゲームチェンジ
〜点から線の接点が生み出す「一生のおつきあい」〜

尾原和啓氏の連載コラムDigital Ship - Vol.9 -
~明日のために今こそデジタルの大海原へ~

顧客データを上手に活用するDXが登場したことで、企業と顧客のつきあいかたが大きく変わってきた。物を売ったら売りっぱなし、サービスも利用のたびに料金を徴収する従来のやりかたでは、企業と顧客の接点は「点」でしかなく、次にまたその企業・商品・サービスが選ばれるかどうかは、誰にもわからなかった。

しかし、この連載でも何度か紹介したSaaS(Software as a Service)をはじめ、月額課金のサブスクモデルが普及してくると、企業と顧客は「線」でつながるようになる。それによって、産業構造をガラリと変える地殻変動があちこちで起こっている。

2022年7月26日公開

毎日歩くだけでポイントが貯まり、健康になり、保険料も安くなる

保険はもともと、怪我をしたときや病気にかかったときなど、何か問題があったときだけ関わってくるものだった。しかし、中国の大手保険会社は、「万歩計アプリ」を提供することで、ユーザーと毎日つながる方法を発見して、2.1億人ものユーザー(保険契約者)を抱える巨大サービスに成長した。

ユーザーはアプリを起動して歩くだけでポイントが貯まる。毎日1万歩以上歩けば、健康にポジティブな効果があるといわれているが、歩けば歩くほどユーザーは病気になりにくくなり、保険金の支払いが減るため、結果として、保険をより安く提供できるようになる。

貯まったポイントを使えば、ユーザーは無料で医者に年中無休のオンラインチャットで相談できる。ちょっと熱っぽいときに、市販の風邪薬を飲めばいいのか、それとも病院に行ったほうがいいのか、医者に相談できれば心強いはずだ。さらに、病院に行ったほうがいい場合は、医者ごとに専門分野やユーザーレビューが見られるようになっているので、アプリから自分にぴったりの医者を選んで予約できる。病気の早期発見・早期治療につながるため、ユーザーはより健康になるし、医療費は抑制され、保険金の支払いも少なくなる。ユーザーも保険会社もお互いにハッピーになる仕組みだ。

こうしたサービスは、保険加入者なら無料で利用できる。月額課金モデルを構築するときの最大のハードルは、月額いくらならユーザーは支払ってくれるかという料金設定の問題だが、もともと月々保険料を徴収していて、その付加サービスという位置づけなので、そうした悩みはないところもポイントが高い。

また、アプリの開発費は固定費用なので、いったん仕組みをつくったら、あとはユーザーが増えれば増えるほど、1人あたりのコストは下がっていく。それもあって、より安い保険が提供できるようになり、さらに多くのユーザーに選ばれるという好循環が回るのだ。

個別最適化されたパーソナル医療の提供

しかし、万歩計アプリは保険DXのほんの序の口にすぎなかった。トラブルがあったときだけ顧客の憂いに対応していた保険会社が、顧客の人生に寄り添い、生涯にわたって健康面の不安や憂いを解消していく。「点」から「線」へと顧客接点を拡大した保険会社が次に目指したのはどこか。

  • Patient Journey:患者さんが症状や疾患を通じて、医療に関わる際にどのように考え、感じ、行動するかという全体像を捉えた概念

ある中国の保険会社は、日本の大手製薬会社と事業提携して、医薬品の開発・製造・販売に乗り出したのだ。ユーザーはポイントを貯めるために毎日アプリを開く。健康なときから病気になったときまで、ずっとアプリでつながっているから、ユーザーの健康状態が手に取るようにわかる。そのデータを医薬品メーカーと共有することで、ユーザー1人ひとりの状況に合わせた医薬品の開発が可能になる。できあがった薬は、アプリでユーザーに案内して近所の自販機から買ってもらったり、ユーザーに直接デリバリーすれば、売れ残る心配もない。

たとえば、頭痛にもさまざまな症状があり、それぞれの症状に合った薬も違うはずだ。しかし、市販薬は薬価が高くないこともあり、メーカー側がつくるインセンティブはそこまで高くなかった。その結果、これまではざっくりとした「頭痛薬」というくくりで売り出すしかなかったのだ。しかし、個別のデータが手に入り、確実に買ってくれる顧客がいるなら、もっと細かくセグメントを分けた薬を開発するインセンティブが生まれる。結果として、ユーザー1人ひとりの症状に合わせてカスタマイズされたパーソナル医療への道が拓けるのだ。

もちろん、自分の症状に合った薬が手に入ればユーザーにとってもうれしいし、薬の効果が高まれば、保険金の支払いもそれだけ抑えられることになる。ユーザーも保険会社も製薬会社もみんなハッピーというわけだ。

UX向上なくしてDXの成功なし

顧客接点が「点」から「線」へ広がると、それだけ多くのデータが入手できるので、そのデータを使って、メーカーはよりよい製品を開発でき、それをユーザーに還元できるようになる。

データは大切だが、そのデータを使ってユーザー体験(UX)をつねに向上させることを目指さなければ、せっかくできた顧客との「線のつながり」が途切れてしまう。DXを成功させるには、UX向上へのたゆまぬ投資が不可欠であり、それを裏側で支えるのが、企業サイドのDXということになる。

つまり、UXとDXが同時に、相互補完的に進化していくことで、未来が見えてくるのである。

DX=データ取得ではなく、DX=UXへの投資 更に企業側DXへの投資へ

データは大切だが、データ取得後にユーザ体験品質向上(UX向上)に展開できることまで踏まえなければ意味がなく、「UXをいかに更新させ続けていくか」を目的とした業務プロセス変革、デジタル環境づくりが求められる

IT批評家/フューチャリスト尾原和啓(おばら・かずひろ)

1970年生まれ。京都大学大学院工学研究科応用システム専攻人工知能論講座修了。マッキンゼー・アンド・カンパニーにてキャリアをスタートし、NTTドコモのiモード事業立ち上げ支援、リクルート、ケイ・ラボラトリー(現:KLab、取締役)、コーポレートディレクション、サイバード、電子金券開発、リクルート(2回目)、オプト、Google、楽天(執行役員)の事業企画、投資、新規事業に従事。経産省対外通商政策委員、産業総合研究所人工知能センターアドバイザー等を歴任。 現在はシンガポール・バリ島をベースに人・事業を紡ぐカタリスト。ボランティアで「TEDカンファレンス」の日本オーディション、「Burning Japan」に従事するなど、西海岸文化事情にも詳しい。著書に「ネットビジネス進化論」(NHK出版)、「あえて数字からおりる働き方」(SBクリエイティブ)、「モチベーション革命」(幻冬舎)、「ITビジネスの原理」(NHK出版)、「ザ・プラットフォーム」(NHK出版)、「ディープテック」(NHK出版)、「アフターデジタル」(日経BP)など話題作多数。