和食シリーズ企画第四弾 日本人の食卓―100年の歩みを辿る和食シリーズ企画第四弾 日本人の食卓―100年の歩みを辿る

#10 ― ちゃぶ台からダイニング・キッチンへ篇

「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されてから数年が経ちます。
「このままでは衰退する可能性がある食文化」とされた和食は、あれから歩みを前へと進めることができたのでしょうか。
2021年に創業100周年を迎える三菱電機は、日本の暮らしとともに歩み続けてきました。
これからも家電メーカーとして日本の食文化に寄り添っていくために、
この100年間の日本人の食卓、そして家電の歩みを振り返り、次なる100年を考えていきます。

和食シリーズ企画第4弾「日本人の食卓 - 100年の歩みを辿る」。今回のテーマは、第2回にも登場した「食卓」。前回は100年前、まだちゃぶ台が本格的に茶の間に浸透する以前――箱膳などの銘々膳が使われていた当時の“食卓”の風景を紹介しました。

その後、1923(大正12)年の関東大震災を経て、日本の食卓の主役はちゃぶ台へと移行します。調査によれば、1925(大正14)年にはちゃぶ台で食事をする家庭の数が銘々膳を逆転。使用人の多い商家などでは銘々膳が長く使われましたが、住居が狭く家族が同時に食事をする都市部を中心に、大正の終わりから第二次大戦後にかけて、ちゃぶ台全盛時代を迎えます。

お茶の間の代名詞ともいえるちゃぶ台

デンと座った家長は何もしなくとも食事が出され、食べ終われば片付けてもらえる。それを指して「上げ膳据え膳」と言いましたが、お膳ごとに上座と下座があった時代から、家族がひとつの食卓を囲む時代へと移行していったのです。

ちゃぶ台の隆盛とともに、「茶の間」という部屋も出現しました。食事時にはちゃぶ台で食事をするダイニング、夜にはちゃぶ台を片付けて寝室として使われる空間です。家庭生活の多くの時間がここで過ごされ、家族がそろった風情を象徴する「お茶の間」という概念につながっていきます。

ちゃぶ台は足を畳んで片付けられる

さらに戦後の復興期を経て、昭和30年代、日本人の食様式は「ちゃぶ台×和室」から洋風の「ダイニング・キッチン」へと移行します。実は「ダイニング・キッチン」は昭和30年代の公団住宅が世に広めたものなのだとか。今回は日本住宅公団の歴史を継ぐ、UR都市機構の増重雄治さんに、団地から生まれた昭和の食卓の変遷を伺いました。

ご案内いただいたのは、
UR都市機構 技術調査課 集合住宅歴史館担当の
増重雄治さん。

「ダイニング・キッチン」は和製英語

編集部
大正時代から昭和にかけて、家庭の食は主に「ちゃぶ台」の上で展開されてきました。それは日本の集合住宅の歴史とも符合しています。しかし第二次大戦が終わり、戦後の復興期を乗り越えると団らんの場は、洋風のダイニング・キッチンに移行していきました。その契機となったのが、昭和30年代の公団住宅人気――いわゆる団地ブームです。
増重さん
(以下 敬称略)
現在では不動産用語としても当たり前の「DK」――ダイニング・キッチンという概念を広めたのは当時の住宅公団だと言われています。もともと、国策として1951(昭和26)年に当時の建設省が定めた「公営住宅標準設計」で台所を広めに取って、食事室と兼用にするというスタイルが提案され、その間取りにアレンジを加えたのが1955(昭和30)年に設立された日本住宅公団の標準設計でした。
編集部
間取りとしては、現代の集合住宅でもよく見られる2DKですね。ちなみに「DK」――「ダイニング・キッチン」という言葉は、どんな風に生まれたのでしょう。
増重 
当時の建設省の設計担当者が洋式の「ダイニング・ルーム」と「キッチン」をかけ合わせて「ダイニング・キッチン」という和製英語を作ったと聞いています。当時の集合住宅においては「寝食分離」を実現するのが大きなテーマでした。ちゃぶ台を片付けてそこに布団を敷くのではなく、食べる部屋と寝る部屋は分けようという発想です。

当時のダイニングキッチン

鎖でつながれたダイニングテーブル?

編集部
ライフスタイルの提案にまで踏み込むとなると、いくら間取りが決まっていても一朝一夕にはいかなかったのではありませんか。
増重
おっしゃる通りで、当初は新しい生活様式に沿った市販の家具や家電などもなかったようです。元祖2DKとも言われる1957(昭和32)年の蓮根団地などにはダイニングテーブルが据え付けてありました。当時は、転居時に持っていかれないよう、鎖でダイニングに固定されたこともあったようですね。

据え付けだったダイニングテーブル

編集部
「DK」のキッチン事情はどうだったのでしょうか。
増重
公団住宅の供給がスタートした当初は「ジントギ」と言われるものが使われていました。
編集部
ジントギ……ですか。
増重
「人造石研ぎ出し仕上げ」の略ですね。小石をセメントで固めた台を研いで仕上げるタイプの流しです。ただ据え付けが重かったり、欠けたりするなど不具合もあったので、丈夫で軽く、コストのかからない新しい素材が求められていました。その筆頭に上がっていた候補がステンレスです。それまでも木製の枠に金属板を張った流し台は使われていましたが、量産するには工場である程度ユニット化する必要がある。ところが、当初は一体成型の技術がない上に、引き受けてくれるメーカーもなかなか見つからず苦労したようです。結局引き受けてくれたのは東京・板橋のサンウエーブさん。いまでは大企業(現在のLIXIL)ですが、当時は従業員数十人の町の小さな板金工場だったそうです。


ジントギ


ステンレス製のシンク

編集部
当時の技術者はどのような点に苦労されたと伺っておられますか。
増重
特にシンクの部分ですね。四角い金型で押し込んでステンレスを伸ばすように成型するのですが、当初は何度やっても割れが発生したそうで、最後のほうはシンクの四隅部分にとげ抜き地蔵の御札を貼って祈りながらプレスしていたそうです。1956(昭和31年)9月20日にようやく成功して、担当していた若手社員2名は社長さんから銀座でステーキをごちそうになったという話もあります。

当時の三菱家電

三菱テレビ「14T-700形」

白黒テレビ
三菱電機とテレビのかかわりは、昭和初期にまで遡りますが、1953(昭和28)年のテレビ本放送開始にそなえて本格的な開発がスタート。同年には、三菱テレビ第1号となる「101K-17形」を発売。1955(昭和30)年には、初の自社設計となる「645T-14形」を発売します。そして、テレビ時代の本格的な幕開けを迎えて各社間の競争が激化する中、戦略的な製品企画を進め、1958(昭和33)に5万2000円で発売した「14T-700形」は、価格・技術ともに話題を集め、ヒット商品となりました。

「ウインデヤ」第1号

ルームエアコン
三菱電機のルームエアコンの歴史は、1952(昭和27)年に開発された草分け的存在、重量130kgのマンモスエアコン「ウインデヤ」にはじまります。1959(昭和34年)には、小型化が進んだ家庭用クーラー「ホームウインデヤ(RC-04形)」が登場。その後、1968(昭和43)年には、現在の主流となるラインフローファンを世界で初めて採用した「MS-22RA形」が登場し、今に続く「霧ヶ峰」ブランドを世に知らしめるエポックメイキングな製品となりました。

現代まで続く流しの配置も公団だった

編集部
それが1957(昭和32)年のダイニング・キッチン入りの蓮根団地につながっていくというわけですね。
増重
蓮根団地のキッチンは他にも改良が加えられていました。「ダイニング・キッチン」と言っても、当時の間取りは4畳半程度。こまこまと動き回るスペースはないので、できるだけ動かなくて済むようにするため、それまで「流し→作業台→コンロ」という作業の流れの順に配列されていた台所を「コンロ→流し→作業台」という順に変えたのです。
編集部
中央に流しがあって、左右にコンロと作業台があります。いまのキッチンの型の基本となるスタイルですね。
増重
提案されたのは、日本初の女性建築家と言われる浜口ミホさん。台所仕事は水回りの作業が多いため、もっとも多くの時間を割く流しをホームポジションにして、左右の移動を極力少なくする設計をお考えになったようです。

台所も使いやすく進化

編集部
団地が日本社会に定着していった昭和30年代は、現代に通じる食文化が本格的に根づく時期とも符合します。
増重
そうですね。ただ昭和30年代当時は発展途上だったようで、通風孔はあっても換気扇はなく、二口コンロは普及していてもまだ魚焼きグリルはついていません。公団住宅の供給開始時には電気炊飯器はおろか、ガス炊飯器の普及もこれからという頃で、羽釜で炊いたごはんをおひつに移して保存するのが当たり前という時代でした。
編集部
一方、現代で言うタワーマンションのように高所得者が入居するような物件もあったと聞いています。
増重
基本的には中堅所得者層向けの物件が多かったんですが、1958(昭和33)年の晴海高層アパートや多摩平団地テラスハウスなど、企業の役員や大学教授などが住まうような賃料の高額な物件も確かにありました。といっても賃料に大きく反映されるのは、立地や広さ、建物のつくりで、台所まわりの基本的な設備については、それほど差はなかったようです。

晴海高層アパートの復元展示

編集部
所得階層にかかわらず、住戸数の充実が必要という時代の要請もあったんでしょうか。そういえば、有名人にも公団住まいの方がいらしたという話も聞きました。
増重
有名なところでは、大阪の西長堀アパートには、著名な作家さんや女優さん、スポーツ選手の方などがお住まいだったという話はよく知られています。
編集部
庶民から著名人まで、日本の台所のあり方や洋式テーブルまで含め、日本人のライフスタイルを大きく変えたのは公団住宅だったという側面は大きいかと思います。本日はどうもありがとうございました。

公団住宅はあこがれの生活だった

ちゃぶ台からダイニング・キッチンへ、という日本の食卓の移り変わりは、
より文化的でモダンな暮らしにあこがれた時代の必然だったということですね。
次回は、昭和の食卓について、より食事面にスポットを当ててご紹介します。

取材・文/松浦達也  撮影/魚本勝之
2019.08.27

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