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ライター 林 公代 Kimiyo Hayashiライター 林 公代 Kimiyo Hayashi

プラネタリウム100周年。「地上の星」はどのように生み出されたのか

ドイツで公開されたプラネタリウムは見るもの全員を興奮させ、「イエナの驚異」と呼ばれた。(提供:Deutsches Museum München CC BY-NC-SA

世界には4000を超えるプラネタリウムがあり、日本にも300以上があるという。日本は米国に次ぐプラネタリウム大国だ。最近は美しい星空を追求した投影機や、デジタル映像装置の開発も進み、多彩な番組を楽しめる。天文・宇宙の最前線を学ぶ場としてはもちろん、世の中に光が溢れる今、宇宙に向き合う貴重な場であり、癒しの空間(熟睡もできる!)、デートスポットとしても人気だ。

そもそも、プラネタリウムってなんだろう?語源をたどれば「惑星(プラネット)」に関連する「場所(アリウム)」という意味。遙か彼方の宇宙を部屋の中に出現させる魔法のような空間だ。「プララネタリウムと聞くと、皆さんは丸いドームがあって中央に星を映す機械がある空間を思い浮かべるでしょう。そのような『近代的プラネタリウム』が誕生したのはちょうど100年前のことです」。

そう話すのは明石市立天文科学館の館長で、日本プラネタリウム協議会のプラネタリウム100周年記念事業実行委員長でもある井上毅さんだ。「近代型プラネタリウムとは、中央に投影機を置いて星の光を光学的にドームに映すことで、本物と同じように輝く星空を出現させるもの。初公開は1923年10月21日、ミュンヘンにあるドイツ博物館でした。満天の星に人々は賞賛の声をあげ、『イエナ(プラネタリウムが作られた都市)の驚異』と呼ばれたのです」。

1924年夏、イエナにあるツァイス社の工場の屋上に仮設されたプラネタリウム。評判を聞いた多くの人が訪れた。(提供:ZEISS Archive CC BY-NC-SA

2023~2025年にかけて、国際プラネタリウム協会(IPS)では100周年記念事業が続く。日本でも記念イベントが各地で始まっている。井上さんは100周年にあたり、改めてプラネタリウムに関するドイツ語の様々な文献を調査。「プラネタリウムの発明と日本でのはじまり」という記事を天文月報2023年4月号に寄稿された。その記事がへぇ!と驚くことばかりで面白い!(欄外リンク参照)。さっそく井上さんに話を伺った。

ドイツで生まれた「近代プラネタリウム」誕生秘話に入る前に、少しだけ前史を。「古い時代から人類は宇宙の模型を作っていました。古代ギリシャの科学者アルキメデスが、天球儀の中に惑星の運行を再現する装置を組み込んだという文献があります」(井上さん)。実際、1901年に古代ギリシャの沈没船から発見された機械(アンティキテラ島の機械)は、太陽・月・惑星の動きが再現でき、アルキメデスの装置(運行儀)と関係があると言われる。つまり2000年以上前からプラネタリウムの原型はあったと考えられるのだ。

井上毅さん。明石市立天文科学館の館長で、日本プラネタリウム協議会プラネタリウム100周年記念事業実行委員長。

一方、「現存する最も古いプラネタリウム」といわれるのが1781年、オランダのアマチュア天文家アイジンガーが作った太陽系の模型だ。彼は自宅を改造して7年がかりで機械仕掛けの太陽系の模型(運行儀)を居間の天井に作ったという。なぜ?なんのために?

「18世紀、夜明けの空に惑星や月が集まる現象が起こったんです。予言者が『この世の終わりがくる』と言い、人々の間に不安が広がった。アイジンガーは、天文学を理解していれば、惑星の見かけの位置でたまたま起こる現象と理解できるはずと考え、自宅に太陽系の模型を作り町の人々に見せたのです。最新の天文学を学ぶ場所という意味では、現代のプラネタリウムと全く同じ気持ちで作られている」(井上さん)。アイジンガー・プラネタリウムはオランダ北部フラネケルで今も公開され、名古屋市科学館にはその実物大レプリカが展示されているそうだ。

井上さんは、プラネタリウムには2つのルーツがあると話す。アイジンガーが作ったような天体の運行を表現する「天体運行儀」と、球体に恒星の位置を示した「天球儀」。その両者が合流したのが近代的な光学式プラネタリウムだと。では100年前、近代的プラネタリウムはどのように生まれたのか?

プラハの天文時計。中世以降のヨーロッパでは、時計技術師が天体運行儀を製作した。最初に登場したのが天文時計。

「本物のように輝く星空を作って欲しい」ドイツ人電気技術者の思い

アイジンガー・プラネタリウムは、機械式の天体運行儀だった。一方、天球儀はどうだろう。1912年、米国のアトウッドが直径4.5mの球体の天球儀を作成。恒星の位置に等級別に692個の穴をあけ、球の中に入ると部屋の照明を取り込んで夜空の星のように見えた。天球は電動モーターで回転した。

だが、近代的なプラネタリウムが誕生したのはオランダでも米国でもなく、ドイツだった。ドイツは19世紀後半から工業化で飛躍的な発展を遂げていた。プラネタリウム誕生のきっかけは天文学者ではなく、電気技術者だったオスカー・フォン・ミラーのある想いだった。

「ミラーは1881年のパリ電気博覧会などを見学し、『科学技術を美術館のように展示したい』と科学技術の博物館『ドイツ博物館』の建設を呼びかけたんです。博物館には宇宙の模型も展示したいと。ハイデルベルグ天文台の天文学者から、天体望遠鏡やレンズの技術をもつツァイス社を紹介されたミラーは、『光る星空、本物のように輝く星空、惑星の動きを理解しやすいものを作って欲しい』と依頼しました。初めはアトウッドの天球儀の中に、天体運行儀を組み込んだようなものを考えていたそうです」(井上さん)

オスカー・フォン・ミラー氏。ドイツの電気技術者でドイツ博物館の創立者。(提供:Deutsches Museum München CC BY-NC-ND

1912年、ツァイス社はミラーの要望に応じた展示装置を完成。「ガラスの天球儀に恒星を表面加工し、中央に太陽系模型を配置した見事な装置でしたが、ミラーは『星が光らない』と満足しなかった。彼は電気技術者でしたから(笑)。電球を使って星を光らせて欲しい、電気モーターで天体の動きを再現して欲しいと要求したんです」。それから星が光るプラネタリウムを目指して、格闘の日々が始まった。

1924年、ドイツ博物館に展示されたもう一つのプラネタリウム。地球の位置にゴンドラが吊り下げられ、人が乗って太陽系を回る。(機械式)運行儀の最高峰とも呼べるものだったが、光学式が大きな評判を呼びその存在は霞んでしまった。(提供:ZEISS Archive CC BY-SA

歴史的転換点—機械式から光学式プラネタリウムへ

ツァイス社の経営委員・技術者ウォルター・バウエルスフェルトの研究日誌から、1920年5月のメモ(提供:ZEISS Archive CC BY-NC-SA

「歴史的な会議が行われたのは1914年2月です」。井上さんは語る。ツァイス社があるドイツのイエナ市で、仕様がなかなか定まらないプラネタリウムについて緊急の会議が行われた。「天球儀の内部に、太陽や惑星などの運動を示す機構をもつ複雑な機械がいかに製作困難か。その課題に対して、ツァイス社の経営委員であり技術者のバウエルスフェルトは『そんなに複雑で重い機械を作るより、球体の内側に天体の絵を光学的に投影する方が簡単だし、天体の動きも表現できるのではないか』と提案したんです」。

それまでは機械的に惑星や月、太陽を動かしていたが、投影機をドームの中央に配置して天体の光を投影する。そうすれば投影機の動きで天体の運行を表現できる。「現代の『光学的プラネタリウム』の発想が生まれた歴史的な転換点です」(井上さん)

アイデアは画期的だったが、実現には様々な困難があった。まず、光学式プラネタリウムの正式発注直後に、第一次世界大戦が勃発。約4年間、プロジェクトがストップしてしまった。戦争終結後に開発は再開されたが、今度は技術的な課題にぶつかった。

シャープで美しい星空を表現するために、ツァイス社は写真レンズを利用した難易度の高いプラネタリウム開発に挑んでいた。レンズ中央の星は良好な像を結ぶが、周辺の像はゆがんでしまう。技術陣はなかなかこの課題を解決できず、1919年には「光学式プラネタリウムは不可能であり、最初の計画に戻った方がいい」とミラーに手紙を送ろうとし、責任者であるバウエルスフェルトに手紙のサインを求めた。

「ここでバウエルスフェルトが怒ったわけです。本当に彼が怒ったのか興味があって色々調べたら、彼の回想的な論文に『I was angry』という言葉を見つけ出しました。論文に書くなんて、めっちゃ怒ったんやなと(笑)。管理職にあった彼が技術的に解決できると考え、『自分がやる』と。そして週末の間に自ら解決策を編みだし、月曜に技術陣に提示したんです」(井上さん)

彼の解決策は、レンズが良好な像を結ぶように全天をできるだけ多く分割する画期的なもの(詳しくは天文月報の井上さんの記事参照)であり、このアイデアによって光学式プラネタリウムが開発可能になった。「彼の発案は現代の最新プラネタリウムでも採用されています」と井上さんは歴史的アイデアを賞賛する。

1925年5月7日、ドイツ博物館で公開されたプラネタリウム映写機(ツァイスI型)。4500 個の星、天の川、重要な星座を表示できた。円筒部分のプロジェクターは太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星をドーム上に再現した(提供:Deutsches Museum München CC BY-NC-SA

「イエナの驚異」

解決策は見つかった。プラネタリウム完成を目指し、試験投影が繰り返し行われた。そこで映し出された星の美しさは、バウエルスフェルトを含む技術者たちの度肝を抜いた。「大変な苦労の末に作られたプラネタリムで本当に星が綺麗に見えるのか、誰も知らなかったわけです。だが暗がりの中に映し出しされた満天の星は、技術者自身の想像を超えて遙かに美しかった。開発者たちが一番感動したと思います」。

ミラーは、少しでも早く披露したいと考えた。1923年10月21日、ドイツ博物館に仮設された10mのドームで、博物館の関係者向けに、バウエルスフェルト自身の演示によるプラネタリウムの歴史的投影が行われる。見学者からは大きな称賛の拍手が沸き起こった。試験公開は大成功をおさめたが、その後プラネタリウムはイエナに持ち帰られ、さらに改良が加えられた。

建設中のプラネタリウム用16mドーム。この構造はプラネタリウムのみならず、建築技術に革命をもたらした。(提供:ZEISS Archive CC BY-NC-SA

翌1924年の夏には、16mドームがイエナにあるツァイス工場の屋上に設置された。「ここで(投影機の他に)もう一つの新しい技術である、ドームが開発されました。半球の天井を作る際、初めは布で作ろうとしましたがドイツでは高価な材料でした。そこで安価に手に入る鉄を組みあわせて、トラス構造にし軽量で頑丈なドームを完成させたのです」(井上さん)。試験公開も大好評で2か月間に約5万人が訪れた。

そして1925年5月7日、ミュンヘンのドイツ博物館新館の落成式でプラネタリウムが一般公開されると、プラネタリウムの星の美しさは大評判に。「Wonder of Jena(イエナの驚異)」と呼ばれた。

1926年12月6日に行われた、イエナの学生と教師への投影の様子。中央は「ツァイスII型」。北半球と南半球の2つの恒星球があり、世界各地の星空が投影できるようになった。(提供:ZEISS Archive CC BY-NC-SA

日本へプラネタリウムがやってきた

ワンダーをもたらしたツァイス社のプラネタリウム「ツァイスI型」は、ドイツの緯度の星空しか投影できなかった。そこでツァイスの技術陣は世界各地の星空が投影できる「ツァイスII型」を開発。ドイツ博物館のプラネタリウムの評判は瞬く間に広がり、世界からプラネタリウム設置の要望が届くようになる。

東洋初のプラネタリウムとして日本に「ツァイスII型」が設置されたのは、大阪市立電気科学館だった。翌年には東京・有楽町の東日天文館に設置される。その後の日本でのプラネタリウムの発展や変遷は、次の機会に詳しく紹介していこう。

明石市立天文科学館のイエナ製プラネタリウムは1960年の開館当時から稼働し長寿日本一、現役で日本最古のプラネタリウム。ファンからは「イエナさん」と呼ばれ、今も活躍している。

ところで、井上さん自身のプラネタリウム体験は?「初めて見たプラネタリウムが、今私が働いている明石のプラネタリウムです。小学4年生でした。そのとき見た土星の小さな輪っかが凄く印象に残りました。明石のプラネタリウムは「ツァイスII」の発展型です(カールツァイスイエナUPP23/3)。1995年の阪神淡路大震災で天文科学館の建物は深刻な被害を受けましたが、奇跡的にプラネタリウムは被害をまぬがれました。3年間の休館後に天文科学館を再開する時に、私は学芸員として採用されたんです。ドームで星を投影したときに土星に輪っかを見て、『子供の時に見た土星と一緒だ』と感慨深かった。歴史を引き継ぐ使命感を感じましたね」。

日本のプラネタリウムの歴史を見続けてきた名機について、井上さんは「全体のバランスがいい」と目を細める。「歯車の組み合わせで惑星の位置を表現しますが、その機構が精密な機械式時計を見るような美しさがあり、投影される星が心に染み入る優しさがあります。夕焼けの美しさ、操作のしやすさ。今も多くの方がプラネタリウムを見に来館して下さいます」

改めて、プラネタリウムの魅力とはなんだろうか。「まずは星の美しさですね。明かりが落ちて星が輝くと、無限の宇宙の彼方にいける。星を見ながら宇宙のことを考えるのは非常に豊かな時間です。誰でもアクセスできる『宇宙への扉』です」

プラネタリウム100周年の記念行事は、専用ウェブサイトに掲載され、逐次更新される(欄外リンク参照)。明石では6月10日、時の記念日×プラネタリウム100周年記念事業のイベントを予定。オランダにある世界最古のプラネタリウム「アイジンガー・プラネタリウム」をモデルとして製作された天文腕時計(参考価格1200万円!)を特別公開。井上さんらによるオンライン生配信も実施される(詳しくは欄外リンクを!)

また10月には、プラネタリウム100周年を記念した全国一斉イベントも計画しているそう。情報をチェックしつつ、まずは近くの「宇宙の扉」に出かけ宇宙と、そして自分と対峙する時間を楽しんではどうでしょう。

プラネタリウム100周年公式ポスター(デザイン:前田知絵、制作:日本プラネタリウム協議会 100周年記念事業実行委員会)
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