ビジネスコラム
杉本昌隆氏ベストよりベターを選ぶ。それも棋士としての矜持(きょうじ)
2025年4月公開【全4回】
第1回 困難に直面したときこそ原点に立ち返る

──杉本棋士はどのように将棋と出会い、棋士を目指されたのですか?
私が幼いころ、父からトランプやオセロ、五目並べなど、いろいろなゲームを教わりました。その中のひとつが将棋だったんです。駒の種類が8種類もあって、駒の能力や動きもすべて違う。とくに駒を飛び越えることのできる桂馬の立体的な動きに魅了され、一気にのめり込んでいきました。小学2年生で将棋を始め、4年生のころにはおぼろげに「棋士になりたい」という気持ちが芽生えて、子供向けの将棋教室へ通い始めることに。その後、小学6年生でプロへの登竜門となる奨励会へ入会しました。「棋士になりたい」という夢が覚悟に変わった瞬間です。しかし、それまでの将棋教室では「天才少年」などともてはやされていた私が、奨励会では一転して挫折を味わうことになります。
──どのような挫折を味わったのですか?
当時の奨励会ではほぼ最年少でしたので、なかなか先輩に勝つことができませんでした。今から思うと明らかに実力が足りておらず、のちに私を知る先輩からは、「君は絶対棋士になれないと思っていたよ」といわれるほどでして。当時は年上が相手なのだから、負けても仕方がないと思っていたのですが、そんな考えをくつがえす出来事がありました。奨励会入会から丸二年経った中学2年生のころ、のちに日本将棋連盟の会長を務められた佐藤康光さんが奨励会の試験を受けにこられたんです。いわゆる“羽生世代”のひとりで、私より1つ年下にもかかわらず当時から非常に強かった。相手を務めた私は、あえなく惨敗。それまで年下に負けた記憶はなかったものですから、それはもう悔しくて。おかげで「このままではいけない」と自分を見つめ直すきっかけになりました。六級から始まる奨励会で五級へ昇級するのに2年7カ月かかったのですが、この敗戦で心から悔しい思いをしたことが、その半年後に昇級できたきっかけです。挫折の経験はまだあり、二段だった16歳のころには下の段へ落ちかけたこともありました。さらに、最後の関門の三段リーグでは3年ほど足踏みするなど、大きなスランプを3回ほど経験しています。結局、11歳で入会した奨励会には10年近くいることになりました。
──そうした挫折やスランプを、どのように乗り越えられたのですか?
1990年、21歳で棋士になれましたので年齢制限の面では余裕があったものの、やはり年数が経てば経つほど焦りも出てきます。正直にいうと、私自身も「棋士にはなれないのではないか」と心が折れそうになったことは何度もあります。しかし、それを跳ね返すことができた原動力は、ひとえに「将棋が好き」だったからだと思います。将棋が好きだから、将棋をやめたくないから、絶対に諦めない。苦しいときほど、自分が将棋を始めた理由である“原点”に帰ってみる。これは、弟子たちにもアドバイスしていることです。
──奨励会の年齢制限は非常に厳格と聞いています。
私の時代は31歳で四段の資格を得ないと退会でしたが、現在は原則26歳です。この年齢を迎えても棋士になれない会員は、奨励会から出されてしまいます。形の上では昔より現在のほうが厳しいように思えますが、その後の人生をやり直すには、むしろ今のほうが当事者のためになるともいわれています。実際、私の弟子も棋士になれず辞めていく人の方が圧倒的に多い。満26歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなければ(勝ち越しの場合は延長あり)、問答無用で辞めなければならないからです。だからこそ、その前に自分で自分の限界を決めつけてしまうのはもったいないじゃないですか。自信をなくした弟子には棋士を目指した原点を思い出し、最後まで諦めないことを勧めています。しかし、将棋以上にやりたいことが見つかったのであれば話は別です。

プロデビューした頃の杉本騎士。苦しいときほど「将棋が好き」という気持ちが原動力だった。
提供:日本将棋連盟
──ビジネスパーソンの転職にも通じるところがありますね。

そうですね。たとえ年齢制限に達する前だとしても、ほかにやりたいことが見つかったのであれば引き止めることはしません。「将棋よりもやりたいことが見つかったことは素晴らしいことだから、ぜひとも新しい道で頑張って」と。ただ、勝てないからとか、自信がないからとか、そういう後ろ向きの理由で「もう将棋を続けられません」という弟子に対しては「棋士を目指したほど大好きな将棋なんだから、ここで諦めずにもう少し頑張ってみないか?」と励ますようにしています。私自身の経験から、努力したことは決して無駄にならないという信念があるからです。ですから、弟子たちには将棋を辞めるにしても、前向きな気持ちで胸を張って新しい道へ進んでほしいと願っています。
──さて、棋士といえば「先を読む力」がクローズアップされますが、そのような能力を養うためのアドバイスをいただけますでしょうか。
私の考えでは「客観的に自分を捉える」ことなのかなと。第三者が自分をどう見ているかを考えることや、自分の置かれた状況を俯瞰して見ることが大切なのではないかと思っています。詳しくは、次回お話しさせていただきます。