Vol.57
「グッド・ルーザーたれ」
私事から今回のコラムを始めたい。僕は大学で体育会の運動部に入っていた。
小中高と野球をしてきて、大学でも何かしらの運動部に入ることは当然のように思っていた。ホッケーを選んだことにさしたる理由はない。経験者が少ないので、今から始めても何とかなるだろうと思った程度である。
ホッケーのような競技人口の少ない競技にも、大学スポーツともなれば、他の私大にはそれなりに経験者が揃う。リーグのなかでもむしろ負けることの方が多いあまり強からざる僕らのチームでも、皆が苦しい練習をし、妥協を排し、喜怒哀楽の限りをつくしてきたといっていい。
そんな運動部のOB顧問として、経済評論家、エッセイストの神崎(こうさき)倫一さんがいた。1926年満州の生まれで、当時も70歳を超えていた。元東洋信託銀行(現三菱UFJ信託銀行)の取締役だった。
彼の言葉は今も忘れられないものが多いが、その一つに「グッド・ルーザーたれ」というものがある。いかに死力を尽くしても、うまくいかない不幸も、超えられない壁も、認められない不満もある。そのときに卑屈になるのではなく、負けても屈辱を受け止め、やるだけのことはやったと堂々と相手をたたえて胸を張る。勝ったときよりもなお大きく見える、尊敬される人であれというものである。
挫折感を味わわなければ本物にはなれない。敗れた経験がない人間は思いやりがなく、人の心を打つこともない—神崎さんは、今にして思えば、スポーツを超えた人間教育を僕らに施していたのであろう。
先日、久しぶりに「グッド・ルーザー」の眼差しを見た。いや、ルーザー(敗者)という言葉は似つかわしくないだろう。彼らの戦いは終わったわけではない。日本の宇宙ベンチャーispaceによるミッション2のことである。
ispaceの月面輸送サービス
ispaceは、月面への物資の輸送サービスなどを業務とする企業である。輸送とはいっても、地上から打ち上げられるロケットは含まれない。ロケットを開発する代表的な企業としてSpaceXがある。ispaceが担当するのは、JAXAやSpaceXのロケットに載せられ、そこから分離放出される輸送機である。輸送機はロケットから分離後、地球低軌道から月へと宇宙空間を航行し、最終的に月面へ軟着陸する。
この輸送機には、ペイロード、つまり搭載物が積まれている。ペイロードは、月面までの輸送費が1キログラムあたりいくらと決まっていて、月面に物資を輸送したい、観測機器でデータを得たい、月面で試験をしたいという希望をもつ企業などが、そのペイロードをispaceから購入するのである。輸送機は使い捨てである。したがって、当然のごとく、ペイロードの輸送費には、輸送機そのものの製作開発費用も含まれることになる。
2023年に行われたispaceによるミッション1は、成功すれば世界初の民間企業による月面着陸であった。ミッション1は、ロケットからの分離と航行、月面へのアプローチまで完璧といっていいほど順調に進んだ。しかし、月面への軟着陸の段階で、地表面からの高さを測った高度計のデータをソフトウェアが誤認識してしまう。(参照:読む宇宙旅行 「ispace月着陸フルサクセスへ「自信あり」。前回の課題克服とミッション2注目点」)
原因は、月面上の数キロメートルの崖であった。輸送機は高度を下げつつ月面上空を水平移動する。偶然崖を通過した。この急激な地表高度の変化を、ソフトウェアは「センサの異常」だと誤認識したが、現実は実際に崖があり、地表高度が不連続に変化していたのであった。その結果、輸送機は地上5キロメートルを“月面”だと勘違いし、そこで燃料が切れるまで逆噴射を続け、燃料が切れたのち月面へと墜落したのであった。
月面到達まで、あと一歩といっていいところまで達していただけに、ispace関係者のみならず、広く一般の応援者も悔しい思いをした。しかし、同時に皆が期待した。ソフトウェアを修正すれば、次こそは月面到達に成功してくれるだろうと。
ミッション2での失敗
2025年1月、SpaceX社のファルコン9ロケットによって、ispaceのミッション2輸送機は打ち上げられた。多くの期待を背負って。
ミッション1と同様、ミッション2も月面までのアプローチは完璧であった。そして、6月6日に月面軟着陸に挑んだが、結果は再び失敗であった。着陸機は十分に減速することができず、月面へ衝突してしまったのである。
6月24日、ispaceは会見を開き、月面着陸が成らなかった原因を説明した。原因は高度計のハードウェアにあったという。
計画では、高度計は地上から3キロメートルの地点から作動し始め、そこから地表からの輸送機の高度を測定し続ける予定であった。輸送機は高度計のデータを基に、徐々に減速していき、最終的に月面に軟着陸するはずであった。
しかし、高度計が実際に作動したのは、地上からわずか900メートル上空の地点からであった。そこから急激に減速したものの間に合わず、月面に高速度で衝突してしまったという。
この高度計であるが、ミッション1では正常に作動していた。ミッション1は、あくまでソフトウェアの誤認識が原因であった。
実は、ミッション1の高度計と、ミッション2の高度計は、異なるメーカーが製造したのだという。ミッション1の高度計は過去に宇宙空間で使われた実績もあったが、メーカーが製造を停止したため、ミッション2では宇宙実績のない類似の地上品を試験して使用したという。ミッション2の高度計も、地上の試験は通過したものの宇宙では計画通りには動作しなかった。
計画通りに動作しなかった原因は不明である。高度計が発するレーザー光の月面反射が弱かったか、あるいは宇宙放射線等によるセンサ部へのダメージがあった可能性も否定できないという。メーカーはispaceの要求を満たす高度計を納品しており、メーカーに落ち度はない。
宇宙実績=コストか、民生品=リスクか
ここで僕は注釈を挟まねばならない。宇宙実績というものについてである。
これまでの宇宙探査は国の宇宙機関が行ってきた。日本でいえばJAXAである。そのJAXAは、地上で振動試験、熱真空試験、放射線試験など、数限りない試験を行い、たとえば高度計のような測定機器を含め、探査機を徹底的にいじめ抜く。それも、放射線試験を例としても、宇宙にいる間にあびる放射線量を遥かに凌駕する量を一度に照射して、それに耐える機器を開発する。
そのような試験には、時間もかかれば、コストもかかる。試験を突破するための必要以上の過度な環境に耐える開発も時には求められる。当然のごとく、地上で使われる類似の民生品に比べて、一機器当たりの値段は飛躍的に上がる。具体的には1000倍以上にもなる。レーザーを使った高度計(測距計)は、地上では数万円前後であるが、宇宙実績を持つそれの金額は億に近い。時間もコストもかけられるJAXAなら、それは可能ではある。
一方、ispaceなど民間ミッションでは、JAXAなど宇宙機関と同様の基準はとれない。時間もコストもかけられないためである。地上民生品を試験し、低コストで使っていかなければ、顧客である企業が購入できるペイロード金額(月面までの輸送費)を実現できず、ビジネスにならない。ここにリスクが内在している。
今回の失敗は、このリスクが表に出てしまったと僕は思っている。おそらく、ミッション2に本当に必要な基準レベルは、JAXAがこれまで行ってきたそれと、ispaceが行ったそれの間にあるのだろう。つまり、コストとリスクの間にある。その最適値は誰にもわからない。わからないから試していくしかない。
一方で、民生品の活用が上手くいった例もある。JAXAによる小型月着陸実証機SLIMに搭載された、民間ペイロードであるSORA-Q(正式名LEV-2)がそれである。SORA-Qはタカラトミーやソニーらによって開発された。月着陸機SLIMをとらえたカメラやIoTボードコンピュータは地上の民生品であり、それを手作業で組み上げてSORA-Qは誕生した。類似品を宇宙実績に基づき作れば、時間もかかり、費用も実現不可能な額になっていただろう。
泣くもんか
ispaceはミッション3に向けて動き出している。2027年には、ミッション3と4が計画されている。ミッション3は、月面への国際チームの一員として輸送機体本体を担当する。ミッション2の輸送機が340キログラム(燃料除く)だったのに対して、ミッション3では1730キログラムと数倍になる。
懸念の高度計は、基準となるレベルを上げて開発試験するという。JAXAなどの宇宙実績のある開発者にも基準の助言も得る。ispaceのCEO袴田氏は“コストとリスクのバランスを見極めながら、実行可能なやり方を模索していく”と「グッド・ルーザー」の眼差しで前を向く。
コストとリスクのバランスを、銀行の経営者であった神崎さんは何というだろう。
話は冒頭の神崎さんに戻る。彼は彼流のダンディズムとして「グッド・ルーザー」を理想としつつ、その内は誰より熱血漢であった。1953年から監督を務め、その後監督を退いても、シーズン中は毎年毎週末グラウンドに来ていた。僕が現役だった2000年前後まで含めて、50年以上にわたってそれは続いた。悲願は関東一部リーグへの昇格である。
1982年チームは好調で、一部リーグまであと一歩まで来ていた。月面目前に迫った輸送機のようだった。しかし、一部には上がれなかった。すでに監督を退いていた彼は、八幡山グラウンドでの一部入れ替え戦に進めなかった敗戦からの帰路をこう書いている。
“つとめて快活をよそおう。ダテやイワモトと与太話をする。…だが、下北沢でわかれて独りになるといけません。一時間前の敗北が麻酔の切れたムシ歯のように痛み始める。京王線。桜上水、上北沢、八幡山。一週間前、一カ月前、どんな気持ちで、あのガスタンクを眺めたか、がよみがえってくる。
私は急に、誰にでもやさしくしてやりたい気持ちになっているのに気づく。神経が衰弱しているのであろう。シャワーをおもいきり出して浴びると、汗が目にしみる。「オヤ、今日は、そんなに暑い日ではなかったのに」とタオルで顔をなでまわす。
泣くもんか、こんなことで。
その代わり、このくやしさを忘れずに、ハタノ、イワモトの時、それができなければフジワラ、コバヤシの時に、それでも無理ならイシカワの時に、私は八幡山で声をあげて泣くだろう”(出典:東京大学ホッケー部会報第18号 1982年)
ispaceのミッション2は決して悲観するものではない。こんなところで泣いてはいけない。歓喜の涙はミッション3にとっておかねばならない。
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