2026年8月3日
技術者の自由な発想を最大化する社風が生成AIの新たな適用法を生んだ
三菱電機デジタルイノベーションは、調剤薬局向け次世代コミュニケーションサービス「AnyCOMPASS」で、2025年1月から新たに生成AIを使った服薬指導や薬歴作成支援サービスの提供を開始しました。生成AIは業務の飛躍的な効率化をもたらす一方、誤った回答が返ってくるリスクが避けられません。その課題に、開発者たちはどのように向き合い、安全性と実用性を両立するAIへと仕立て上げたのでしょうか。担当者たちの声からその開発プロジェクトを振り返ります。
少子高齢化が進む中、薬局の役割も大きく変わろうとしている。「薬を渡す場所」としての存在から「地域の健康管理の中核プラットフォーム」への変貌だ。患者一人ひとりに寄り添ったフォローが求められる一方で、電子処方箋やマイナンバーカードの保険証利用など、医療現場でのデジタル活用は国レベルで推進されている。
三菱電機グループは、レセプト(診療報酬明細書)業務システムなどで30年以上の実績を持つ。その実績を受け継ぐ三菱電機デジタルイノベーションは、こうした薬局の新たなニーズに応えるために、次世代クラウドサービス「AnyCOMPASS」を2023年6月から展開している。患者への服薬指導や薬歴作成業務を、クラウド上で支援するシステムである。服薬指導や、薬歴作成は、薬局が地域の健康管理の中核プラットフォームに発展していくうえで重要な業務であり、AnyCOMPASSはそれらを支援するサービスとして登場した。
その一方で、これらの業務は、多様な医療情報をスタッフが読み込んで解釈しなくてはならない。そこで開発者たちは、まだ医療現場では十分に一般化していなかった「生成AI」の活用に、あえて踏み込んだ。
「患者との会話にヒントがある」
薬局では患者の症状を知るためにアンケートなどが行われることが多い。しかし三菱電機グループで長らく調剤薬局向けパッケージなどの開発に従事してきた高野は、「アンケートよりも、患者との会話に重要なヒントがあったりします」と指摘する。現在、AnyCOMPASSの開発を指揮する高野は、従来から文字情報による患者からの情報収集に限界を感じていたという。自然な会話から必要な情報を収集できれば、患者に負担を掛けることなく重要な要素を引き出すことができ、適切な指導により誤った服薬や副作用などのリスクを低減できる。
薬局の業務は単に情報を検索するだけでなく、適切な服薬指導案の作成やレポートによる管理、処方箋に対する医師への疑義照会などその後に関連する業務が続く。そこで一連のプロセスに渡って生成AIを活用する「AIアシスタント」を指向することにしたが、実現は困難を極めたという。
ゴールが見えない中で挑んだ「思考プロセスの再現」
薬局業務を支援するAIアシスタントを開発するうえで課題となったのは、「薬剤師の思考プロセスの再現」だった。「薬歴作成についても、薬剤師は記録だけをしているのではなく、その前に仮説と検証を繰り返しています。薬剤師の頭の中でどのような思考が行われているのか、明らかにしなくてはなりませんでした」(高野)。
調剤薬局向けシステムで豊富な実績を持つ三菱電機デジタルイノベーションでも、薬剤師の頭の中にしかない暗黙知までは知見として持っていない。そこで東京大学発のヘルスケアAIベンチャーで社内に薬剤師も配する株式会社mediLabと協業。さらに現場の薬剤師による協力体制も構築し、生の声をもとに思考プロセスをシステムに落とし込むことにした。それでも「何をもって完成とするのか、その基準さえ簡単には定められない。ゴールが見えない中で、手探りで前進する必要がありました」と高野は振り返る。
もう一つの課題は、生成AI自体の課題とも言える「ハルシネーション」対策だ。生成AIがネット上の真偽があやふやな情報を参照した結果、誤った回答を返してしまうハルシネーションは、どの業界でも生成AI活用時の課題だが、薬局のように人間の命に関わる業務ではそれは許されない。生成AIの構成そのものを変える必要があった。
そこでAnyCOMPASSのAIアシスタントでは、生成AIが学習したデータではなく、実際の添付文書データベースを常に参照する形にするとともに、添付文書中の参照箇所を根拠として明示する形にした。さらに生成AIも一般的なものではなく、安全性研究で先行するClaudeを採用した。生成AIを本格的に組み込んだシステム構成は当時としては珍しく、かつ稼働ユーザに対する性能試験で最大ユーザ数の資源確保を相談したところ「ベンダーの米国本社から『本当にそんなに使うのか?』と驚かれました」と、開発にあたったプロジェクトリーダーの中村は苦笑する。
ベンチャーと組むために開発手法を転換
AnyCOMPASSへのAIアシスタント実装は、終始新しいことづくめだったが、それでも開発を進めることができたのは「新しい技術に挑むことを、会社として自然に後押しする空気があったから。それが、このプロジェクトを前に進める大きな力になった」と中村は振り返る。
「AIのような技術革新の速い分野で、しかもベンチャーと組むようなプロジェクトでは、特にスピードを要求されます。アジャイル型の開発でなくては追いつかないと思っていたところ、上層部はすんなり受け入れてくれました」(中村)。
三菱電機グループが長年強みを培ってきた産業分野では、システムの安全性が特に重視されるため、機能を一つひとつ確定しながら進めるウォーターフォール型の開発が行われることが多い。しかし走りながら完成形を追い求めるようなシステムには、トライアルアンドエラーを許容するアジャイル型が有効だ。AIの時代に適した開発手法の導入が、抵抗なく受け入れられたと中村は指摘する。
加えて「さまざまな知識に富んだ先輩が多く、最先端を目指すうえでいろいろなことを学ばせてもらった」(中村)ことも、AIアシスタントの実現に寄与したという。さらに「三菱電機グループは知財部門が強く、開発した技術の特許化を支援してくれる体制が整っているので、技術者には大きなモチベーションになりました」と高野は話す。
医療業界に古くから根ざしてきたこともあり、業界からの信頼が厚く、ユーザーと良好な関係を構築できている点も、開発にプラスに働いたという。サンプルデータの提供やフィールドテスト、ユーザーとの懇談会など開発に不可欠な作業に、多くのユーザーが快く協力してくれたという。
薬局に先進的なイメージをもたらす
2025年1月、AnyCOMPASSでのAIアシスタント機能の提供が始まった。業界からもすぐに高い評価が寄せられた。評価の一つは「システムが提案してくれること」である。「単にコミュニケーションを文字として再現するだけでなく、その内容から服薬指導のアドバイスまで得られる点を、高く評価いただきました。薬剤師の思考プロセスをシステムで再現した効果です」(高野)。
もっとも、システムが作る提案は、最終的に薬剤師が妥当性を判断しなくてはならない。完全に自動化されるわけではないが、それでも「一から提案を作るよりも、ある程度形になった提案から作っていく方が、はるかにはかどるという声もいただいています。薬剤師の残業時間削減にも寄与しているようです」(中村)。
その効果は、薬剤師の採用面にも及んでいる。「インターンに『先進的な薬局』というイメージを与えることができています」(中村)。大学の薬学部が教材として採用する例もあるという。
難しいことをあえて選び、困難を価値へと変える開発者たち
高野は「仕事は、敢えて困難なことから進めるようにしている」と話す。「難しいことほど、新たな発見が得られることが多い」(高野)からだ。中村も「できる限り聞き手に回り、タスクに対する解像度を上げていく」ことを心がけているという。易きに流れやすい日常業務の中でも、常に難しいことの方をあえて選ぶ。困難を避けず、価値へと変えていく開発者たちの姿勢と、それを後押しする企業の文化が、この調剤薬局の業務をAIで変える先進的なソリューションを生んだ。
服薬指導や薬歴作成へのAI提供を実現させた開発者たちは、現在はその他の業務も含めて、AnyCOMPASSを調剤薬局の新たなインフラとして発展させることに挑んでいる。「薬歴の情報をもとにした医薬品の在庫管理や次世代レセプトコンピュータなどに適用できないかと考えています」(高野)。またそのノウハウは医療に限らず、法律や保険などの専門サービスや製造業の品質管理など、知識共有が求められる現場に展開できる可能性も秘めている。その実現のために、開発者たちはあらゆる業界とのコラボレーションを推進していく方針だ。
この記事のポイント
- 生成AIを “業務で使える技術” へと昇華させ、薬局業務に実装
- 正解のない課題に挑み、薬剤師の思考をシステムとして再現
- 困難を前向きに取り組み、乗り越えていく文化が、調剤薬局の未来を変えるソリューションにつながった
高野謙司
三菱電機デジタルイノベーション
Serendie事業本部 ソリューション事業統括部
次世代エージェントサービスシステム部 担当部長
流通小売業向けシステム開発を経て、Melphin、AnyCOMPASSの企画・開発を推進。
AI活用やスタートアップ連携も担う。
中村公昭
三菱電機デジタルイノベーション
Serendie事業本部 ソリューション事業統括部
次世代エージェントサービスシステム部 第一課 エキスパート
2015年入社後、Melphin開発を経てAnyCOMPASS薬歴クラウドに従事。
プロジェクト管理、仕様管理、開発を担う。