2026年10月5日
戦略立案の現場に、AIという新たな思考基盤を
市場を読み、仮説を立て、意思決定につなげる。経営戦略や新規事業企画の現場では、膨大な情報を収集・分析し、判断に使える形へと整理する力が求められます。一方で、そのプロセスには多くの時間と経験が必要であり、属人化やアウトプット品質のばらつきも課題となっていました。三菱電機グループでは、AIを単なる業務効率化の手段ではなく、人の判断を支える“考えるための土台”として活用することを目指し、新たなアプリケーションを開発しました。市場分析の効率化にとどまらず、意思決定の質を高め、業務変革の基盤へと広げていく“本当に使えるAI”の実現に向けて、チームはどのように取り組んだのでしょうか。その挑戦の舞台裏に迫ります。
意思決定を支えるAIへ。経営企画の現場から始まった挑戦
経営・事業戦略の立案や新規事業企画の推進に向けた意思決定を行い、企業価値向上を牽引する立場の経営企画部門。三菱電機の経営企画室では、企業競争力や社会貢献度を高めるため、各本部の戦略立案を高度化することが必要だと考えていた。外部環境の変化を受けて迅速性が求められる中、人手と時間を要する業務を見直し、より高度な戦略検討にリソースを振り向ける必要性も認識していた。
折しも、AIを活用して生産性向上・業務効率化を進め、競争力強化を実現しようという全社プロジェクトが始動していたタイミングであり、経営企画室でも業務へのAI適用に向けたアイデアを温めていた。西村慎也がその動きを次のように表現する。
「情報収集や市場の調査・分析、レポート作成といった業務は、時間がかかるうえに負荷も高く、AIでその負荷を軽減できるならぜひ実現し、創出した時間や人的リソースを、より高度な戦略検討に振り向けたいと考えていました。さらに、それら業務の結果を具体的な戦略や事業計画に落とし込む際の“思考の土台”としても、AIを利用できるのではという期待がありました」(西村)。
この発想の背景には、AI自体の急速な発展があったと西村は指摘する。
「AIの技術進化が著しく、私たちのニーズとこのタイミングでマッチしたのは大きかったですね。おそらくスタートが1年前、あるいは半年前だったとしても、AIをここまで積極的に活用しようという発想には至らなかったでしょう」(西村)。
AI活用に向かわせる重要なポイントになった課題としては、いわゆる属人化もあったと同室の野嵜厚太郎が付け加える。
「データを集めたり、そのデータを分析して活かしたりするにはやはり一人ひとりの経験値も必要で、単に人手がかかるだけでなく、属人的になりがちという点も課題でした。AIを導入することでその点も解消できるのではと期待しました」(野嵜)。
調査や分析といった業務は主観的要素が入りやすいうえ、人によって必ずしも得意ではない場合もある。視点やスキルにばらつきがあれば、当然ながらアウトプットの質にも違いが生まれるだろう。AIをうまく使うことでそうした質のばらつきを抑え、加えて、例えば部署に異動したばかりで業務の勘所をまだ掴んでいない社員でも一定レベルのアウトプットを出せるようになる。その発想も重要なスタート地点になったと、野嵜は振り返る。
AIに任せる領域を見極め、“考えるための土台”を設計する
まずは経営企画室内で議論を重ね、開発するAIソリューションについて要件を整理していった。2025年度が始まった頃のことである。その中で、AWS※(Amazon Web Services)と協業しアジャイル開発で進めることが決まり、4月にプロジェクトが始動して、要件定義とPoCが実施された。
総責任者として方向性を示すプロダクトオーナーには西村が就き、実際にプロジェクト進行を牽引するスクラムマスターは野嵜が着任。そしてチームには三菱電機グループの技術者やAI専門家も加わった。プロジェクト開始当初から技術におけるテックリードとして参加した三菱電機デジタルイノベーションの伊美裕司もその一人だ。
- AWSはAmazon.com, Inc.またはその関連会社の商標です。
「課題の洗い出しとそれを受けたユーザーストーリーの構築から議論に参加し、AWS側の意見を聞きながら実際に開発する機能を検討していきました」と伊美。
AIに任せる業務についても議論しました。「AIは情報の収集・整理・要約を得意とするため、まずはこれらの業務をAIに任せることにしました。さらに、AIが整理・要約した情報をもとに、戦略立案のたたき台を作成することもAIの役割としました。一方で、正解のない戦略判断には、人の知識や経験、意思が欠かせません。情報の収集・整理・要約はAIが担い、知識や経験を生かした検討や最終的な判断は人が担う。そうした役割分担です」
2025年5月末、AWSの主導でMVP(Minimum Viable Product)の開発まで行われた段階で、続く具体的なAIアプリケーション開発は三菱電機グループ内のチームが引き継ぐこととなった。この頃には、三菱電機のAI戦略プロジェクトグループ(現在のAXイノベーションセンター)から“AIスペシャリスト”の石上将太郎も加わっていた。さらに9月には、この年入社したばかりの黒石憩もチームに参画した。
“便利そう”を“本当に使える”に変えるまで
プロダクトオーナー・西村、スクラムマスター・野嵜という体制のもと、伊美のリードで2025年度下期にAIアプリケーションの開発と試用が行われ、その結果を受けた改善作業が続けられていった。石上はまずアプリケーションの実装に向けた開発に注力する。
「AIの動きに関する部分は基本的に区別なく担当していました。その中では、いわゆるハルシネーション対策でかなり苦労しました」と石上。例えばAIが作成したレポートに付される参考文献について、AIのハルシネーションにより、文中の引用番号と巻末リストの整合性がとれないケースが頻発したという。
「最初はAIに対しこういったミスをしないようにと指示を追加していったのですが、まったく直りません。ただ、その作業を繰り返していく中でAIのミスにパターンが存在することがわかり、決まったパターンがあるならルールベースで対処できるだろうという発想に切り替え、プログラム側の処理によってその不具合をなくすというアプローチで解決しました」(石上)。
一方、開発全体を技術面から牽引した伊美は「AWSが大枠を作った情報収集の仕組みにいかにデータを取り込むか、また部門外に漏れてはいけないファイルや組織・人のアクセス制御の設計には苦労しました」と振り返る。
実はこのプロジェクト、経営企画室の取り組みとしてスタートしたものの、元は全社のAX(AIによる変革)という文脈がベースにあるため、開発したアプリケーションは同室以外への展開も念頭に置いていた。そのため、全社のドキュメントを共有しながら多様な部門にアクセスの自由度を担保しつつ、情報セキュリティ・認証の部分でも高度な仕組みにしなければならないという命題を背負っていた。認証フローの設計を担った石上は「当社は組織構造が部門により異なるうえ、人によっては三菱電機と他のグループ会社で役割を兼務するケースもあるため、システムで一律にアクセス制御を設計することが難しく、慎重な検討が必要でした」と回顧する。この点は最終的にユーザーの申請を受け、それを自動処理する形で決着した。
併せて、のちのAXイノベーションセンターのメンバーとして全社でのAI活用推進もミッションとしていた石上は、経営企画室以外の部門にも展開するため開発したコンポーネントで共通化できる部分をリスト化し、実際の共通化作業まで手掛けた。
“まずはやってみよう”から、道標「北極星」は生まれた
アジャイル開発ゆえ、作っては試し、改良していく。入社間もない黒石もアプリケーション開発を担った。
「フロント、バックエンド、インフラといった分担はせず、タスクが発生したときは手の空いているメンバーが取り掛かるという体制で進めていきました」(黒石)。
週1回のミーティングで議論を重ね、前述のアクセス制御のように、利便性とトレードオフになる部分については、可能な限り自由度と柔軟性を保つ形でシステムを構築していった。
「“AIなら何でもできる”と高い理想を持つ人がプロダクトオーナーになると、現状のAIにはまだまだ限界が多いことを説明し、納得してもらってから進めなければならないことも多いのですが、西村さんはAIに詳しく、しかもAIの現実をよく知っていたので、例えばハルシネーションの解決が難しいことなど共通認識を持ちやすかったですね」(伊美)。
そうして正式版がリリースされたアプリケーションは、当社Gが目指すべき行き先を指し示すようになってほしいとの願いから、航路決定に使われていた北極星をモチーフにした名前が付けられた。「システム名を決めるときはチームの全員がいくつか候補を出し、その中から投票で決めました」と野嵜。誰の案だったかは覚えていないというが、戦略立案の現場で、次の一手を考えるための道標になる。そんな期待が、名前にも込められている。
その野嵜はアジャイル開発に臨むにあたり、「とにかく、まずはやってみようというマインドが大きかった」と振り返る。アプリケーションのUI/UX部分も、ユーザーの声を聞いて改良を続けた。伊美は「操作がわからないと使われなくなるので、ユーザーがどのようなプロンプトを入力すればいいか悩まないように配慮し、できる限り選択式のインターフェースにして、文字を入力する場所を減らす工夫をしました」とその一例を紹介した。もちろんAIに詳しい人であれば、より柔軟にプロンプトを入力できる仕組みになっていることは言うまでもない。
また、レポートはPowerPoint形式に変換して出力できるようにしている。「変換に際しても出力スタイルを用意しているので、見栄えのするスライドを簡単に手にできます」と、この機能の修正・アップデートを担当した黒石。ちなみに、コーディングでは黒石はもちろん各メンバーがAIを積極活用しており、黒石は「開発の知識を付けたり、既存のコードを読んだりする際にもAIはかなり役立ちました」と評価する。
AIを個別機能で終わらせず、業務変革の基盤へ
経営企画室以外でもユーザーが増え始めている。西村はプロジェクト全体をこう振り返る。
「AIを制御し、業務に使えるレポートを出力できるようにする点が最も苦労しました。開発期間中もAIのモデルが進化し、せっかく作り込んだものの挙動が変わってしまうケースが何度かありましたが、その都度対応し、検証モデルを公開しながら問題を解消していきました。無事にリリースできたのは、やはりチームメンバーの技術力とプロジェクト実行力のおかげです」(西村)。
ただ、「リリースはしたものの、やっとスタート地点に立ったというのがいまの実感です」と西村。ユーザーの声を聞きながらのブラッシュアップはこれからも続く。スクラムマスターの野嵜も「チーム全員で価値を作り上げていくプロセスや考え方は、今後に活かせる大きな学びとなりました。最終的にはユーザーにとってなくてはならない、なければ困るというぐらいのキーアイテムに育つよう、さらに開発を続けていきます」と力を込めた。
伊美はこのプロジェクトを経て「視野が広がり、新しいことにより挑戦しやすくなりました」と語る。またアジャイル開発に初めて取り組んだ石上は、得た知見をすでに他のプロジェクトでも試し、成果が出ていると話す。そして黒石は、プロジェクト開始時の新入社員らしく「AIへのさらなる期待感とともに、責任を持って仕事に当たらなければならないということを強く学びました」と振り返った。
最後に西村は、開発から運用まで多彩な知見が集まる三菱電機デジタルイノベーションの力、そしてそれを含めた“三菱電機グループの総合力”をプロジェクト成功のポイントに挙げた。そのうえで「開発したアプリケーションを戦略の企画立案プロセスに融合し、社員がより魅力的な戦略を語れるように変えていき、実際の事業に貢献することを起点として、将来的に会社変えていくことが目標です」と力強く宣言した。
この記事のポイント
- 市場分析やレポート作成の負荷をAIで軽減し、戦略立案に注力できる環境を構築
- AIのハルシネーション対策や認証・アクセス制御など、実務導入に不可欠な課題に対応
- アジャイル開発により、ユーザーの声を反映しながら継続的に改善する体制を確立
西村 慎也
三菱電機 経営企画統括部 経営企画室 経営企画担当マネージャー
先端技術総合研究所で研究職を務め文部科学省に調査員として出向した経歴と、並行してビジネススクールにも通い、様々な経験を経て得た多彩な知見を武器に、本プロジェクトでは経営企画室のプロダクトオーナーを務めた。
野嵜 厚太郎
三菱電機 経営企画統括部 経営企画室 経営企画担当マネージャー
大学で情報システム工学を学び、システム開発の経験も持っているため、経営企画室側の立場ながら培ってきたIT知識を活かし、スクラムマスターとしてアジャイル開発を牽引。
伊美 裕司
三菱電機デジタルイノベーション エンジニアリング本部 AI・クラウド領域 AIソリューション部 AI企画課
ITの造詣が深く、テックリードとして開発チームの取りまとめとアプリケーション開発を担当。西村から「まず相談する信頼のパートナー」と技術面で厚い信頼を置かれる。
石上 将太郎
三菱電機デジタルイノベーション事業本部 AXイノベーションセンター AI技術基盤開発プロジェクトグループ 基盤開発部 エージェント開発グループ
三菱電機のAXチームとして、グループ全体のAI活用による業務変革を推進する“AIのスペシャリスト”。本プロジェクトでもAIに関するあらゆる部分で軸として活躍。
黒石 憩
三菱電機デジタルイノベーション Serendie事業本部 アカウントソリューション事業統括部 デジタルエンジニアリング部 第二課
入社半年で本プロジェクトに配属されアプリケーション開発や開発環境整備を担う。西村に「1年目とは思えない即戦力」と評されるなど、今後の活躍を期待される若手エンジニア。